米川千嘉子歌集『雪岱が描いた夜』を読む

  支持率のそれでも上がる国にゐて電車のひとをつくづくと見る

  女性専用車両に朝陽は投げ込まれ疲れたひとの顔を照らしぬ

  前後に子を乗せる自転車がつしりと「たたかふ母」を比喩とおもはず


 時代を詠っている歌が印象に残る。一首目は現代の閉塞感を感じる。支持率という形で民意が消極的に現第一党をうべなうという現象が、〈電車のひと〉に表現されている。そんなモッブのなかに自らも置きつつも疑問を感じ〈つくづくと見る〉のである。〈つくづくと見る〉にはその閉塞感や消極的なうべないとは何か知りたいが、漠としているところが込められている。二首目はポストフェミニズム的な歌である。フェミニズムが周縁化されたとされる社会に疲れてしまった女性がいる。朝陽はポジティブなモチーフなのか、それとも本質的でなくキャンペーン的に実施されるアファーマティブアクションのような不必要な照射なのか読みが分かれる。筆者は後者だと思う。一首目や二首目は批評性が強いが、三首目は実際的な歌である。〈比喩とおもはず〉というやんわりとした否定は、〈「たたかふ母」〉というわかっているようで、母を〈母〉という役割として捉える見方を否定していることと通じるところがある。


  たくさんの死者と生きゐる老人がひとり分選るこの世の南瓜


 人の手触り、人生の手触りがする歌である。たくさんの死者と老人の関係が気になるが、おそらく老人は不特定多数の老人で、死者も含まれる。老人、それも独り暮らし、はスーパーでひとり分の南瓜の煮物を買う。高齢化社会、超高齢社会はいままで数多く詠われてきただろうが、この歌はひとつの到達点のように思われる。


  一瞬を全力で生きるのは怖いこと断髪の岡本かの子はわらはず

  ざくざくと紐かけぐいと引き絞る これは〈近代の女〉の塊


 刹那的でダルな現代があれば、一瞬を全力で生きる近代の女、岡本かの子がいる。二首目の〈近代の女〉というのがかの子かさだかではないが、晶子であれらいちょうであれ、書物を紐で纏めるのである。近代の女が現代を見たら隔世の感であろう。いや実際のところ世を隔てているのではあるが。米川のなかに棲む近代の女を一度紐で纏めるのである。近代の価値観を踏まえつつもう一歩先にいき何かを見ようとする意識が感じられる。


  湯豆腐を食べればだれかわがうちに温《ぬく》とく坐りまた去るごとき

  植物だけを食べる友ゐて不眠をいふ植物はたくさん夢を見るから


 大きなテーマのなかにある身辺を詠んだ歌も味わいがある。いままでは時代への哀惜のような感情を感じたが、一首目は湯豆腐が食道を通る感覚から、人への親しみが感じられる。なかでも主体と親しく、わがうち、または傍に坐って安心するような日頃親しくしている他者である。次の歌は菜食主義の友の歌である。もしかするとヴィーガンなのかもしれない。下句の展開が面白く不眠をネガティブなものとしてではなく、どこか友の思想の一部のように捉えている。

 批評もどこか愛がある。ゆえに説得力があるにだと本歌集を読んで感じた。そこには超然と構えるのではなく自分自身もアノミーな現代社会に置くという、最終的には人間や時代を肯定するという態度があるように思える。