夢野久作著『能とは何か』を読む

 夢野久作の能の入門書というのは面白いに決まっている。エログロナンセンスといわれた世界観を思い出すと、能の抱える闇と共通するところがあり接収してきたのかもしれないなどと思うと久作と能が急に接近してくる。


  私は無学な、お国自慢の一能楽ファンである。だから斯様に日本の芸術……特に能楽価値を認めて、日本人に指示してくれる外人諸氏に対して一も二もなく感謝の頭を下げるものである。


 前半、大正時代に西洋各国で能が発見され研究、評価されている状況を踏まえての、久作の立場の表明である。ちょっと斜に構えるところがすでに本書が面白い入門書であることを予感させる。能とは猿楽云々というお決まりの件ではなく、若干偏愛ともいえる語りのもと能を鑑賞するのも面白い。これは野良愛好家の特権ともいえる。


  純乎たる芸術価値のみを目標として、五百年の長い間俗家に媚びず……換言すれば興行本位、金銭本位とせずに、代を重ねた名人達の手によって、洗練に洗練しつくされて来た能の表現の尖鋭さ、芸術的白熱度の高さは、

  能というものは、何だか解からないが幻妙不可思議な芸術である。そのヨサを沁みじみ感じながら、そのヨサの正体がわからない。襟を正して、夢中になって、涙ぐましい程ゾクゾクと共鳴して観ておりながら、何故そんな気持ちになるのか説明出来ない芸術である


 久作によると一般的な能好きの意見らしい。芸術至上主義が長い間温存され洗練されてきたことが、能の歴史からみた凄みである。他の芸術分野は権力に媚びたり、一代限りで終わったりすることもありその点は特異である。また、武士などは能狂いになり、権力者が能に取り込まれるという面白い現象もある。能は長いこと沼であり続けているのである。


  千軍万馬を往来した将軍の風格、狂瀾怒濤に慣れた老船頭の態度等に現わるる、犯すべからざる姿態の均整と威厳は見る人々に云い知れぬ美感と崇高感を与える。その他一芸一能に達した者、又は、或る単純な操作を繰り返す商人もしくは職人等のそうした動作の中には多少ともに能的分子を含んでいないものはない


 久作による能のエッセンスである。将軍、老船頭とただ者ならない人物、そしてそれに比肩する能力者が能的分子を含んでいるという。単純な操作を繰り返すところに能の分子があるというのも共感するが、改めていわれると柳宗悦の民芸運動のような雰囲気もある。「筆者をして云わしむれば人間の身体のこなしと、心理状態の中から一切のイヤ味を抜いたものが「能」である。そのイヤ味は、或る事を繰返し鍛錬することによって抜き得る」と久作は述べているが、このようにして凡夫が作った器に芸術性が宿るのが民芸品であった。また、狂女や山姥も多く登場するが、久作の挙げた人物像に女の情念や、欠落を埋めようとする強い意思を持つ人物を加えてもいいかもしれない。とにもかくにも能には善悪を超えた人間の凄まじさがあるということはわかった。


  畢竟「能」は吾人の日常生活のエッセンスである。すべての生きた芸術、技術、修養の行き止まりである。洗練された生命の表現そのものである。


 「すべてに芸術……の行き止まりである。」といわれるとまた遠くなった気がするが、日常生活の究極が能だといわれるとどこか親しみがわいてくる。自らがいままで経験した人生、触れた芸術、持てる技術を活性化させて能に向かうという一つの能の鑑賞の仕方があってもいいのかもしれない。また、久作の説を発展させていくと能は受動的に鑑賞するものでなく、日常を異化し能的分子を惹起させるものでもあるのかもしれない。もちろん先に引用した「涙ぐましい程ゾクゾクと共鳴して観ておりながら、何故そんな気持ちになるのか説明出来ない芸術である」という楽しみ方もできるが、久作は能は日常生活のエッセンスということの方を強調したいのである。

 さて、能が長い間芸術を保ってきたことは、筆者が親しんでいる短歌と平行して考えると面白い。家元は自流の能楽の演出、維持、興隆その他に就いて、他流の主演者、助演者、狂言方、囃方等と調整、截断をし、素人玄人の指導および流儀の発展をしなければならない。短歌でも短歌結社が会員の指導、研究、普及啓発というマネジメントをしながら、発表や歌会の場を提供している。能の家元は内弟子がいるなど短歌結社以上に徹底しており、久作も「家元が自身鍛練した芸風によって、自流の世界を統一薫化すると同時に、他流の世界と闘って自流の流是を貫いて行かねばならぬ。だから、家元ばかりはドンナ事があっても衣食に困らないようにして、芸道の研究に生涯を捧げ、時流に媚びず、批評家に過またれず、一意専心、自己の信念に向って精進せねばならぬ」と解説するくらいだが(いまもこのような傾向があるのだろうか)、そこまで徹底してきたからこそ芸術の純粋性を保ってきたのだろう。他にも能の芸術に向かう精神性の重さが本書にも書かれており、今日のかつ能以外の分野ではなかなか難しいと思いつつ、しかし、理想的なのが必ずしも良いとは限らないが、理想的ではあると思わされた。最近、筆者が能を見はじめて考えていたことを久作もいっているので最後に引用する。ワキが語るのをみて、能には説話、伝説を踏まえて演じられる題目があるが、能自体がもうすでに伝説や神話の次元なんだよなぁと思っていたのだ。ワキの翁や僧がシテの正体を知って驚いたり感動しているけど、貴方自身が語り継がれる存在になってますよという。


  ヘブライ文化が基督教を、支那文化が儒教を、印度文化が仏教をそれぞれ数千年がかりで生んだ。その通りに何千年か、何万年か生存すべき日本民族の一代がかりで能を完成しつつある。酔い易い日本民族が、終始一貫した努力を払って……