時間が思想に醸すまで 大森静佳歌集『ヘクタール』を読む

   喉仏をとてもしずかに押すときに風のなかトラピスチヌ修道院

  左手は右手を、右手は左手を押さえとどめるためにあるのか

  横顔というのは生者にしかなくて金木犀のふりかかる場所

 本歌集を読むときに目に留まるのが純度の高い感性と、それを的確に表現する修辞、ほどよい飛躍のある歌である。一首目は〈とてもしずか〉とゆったり上句で詠い、下句で〈トラピスチヌ修道院〉を唐突に出現させる。喉仏は生理的な性別の象徴で、例えば喉仏の主が男性であってもそれをゆっくり押すことで、女子修道院が現れる。二首目は言葉は平易だが、右手左手の把握が面白い。二物衝突や生と死の対照性など本歌集は対となるものが主題になっているのだが、言葉は極力平易にし対となるものを詠っている。三首目は誰かの横顔を見たときに、生きているということを不意に思ったのだ。正面しかない死に顔つまりデスマスクは見せけちのように歌に暗示されている。そうした死の気配を打ち消すように、香りの強そうな金木犀のふりかかる場所がある。

  夢のような、ときみが言うたび喉元に白さるすべり暗く噴きだす

  雨だよ、と告げてあなたに降りかかるわたしに雨の才能ありぬ

  運ばれて風の木となるそのときもあなたの挽歌を誰もつくるな

 さて、他者が詠まれた歌、とりわけ〈きみ〉、〈あなた〉と二人称で呼び掛ける歌も多い。二人称をどう読むかだが、歌集を通読したところ、愛する人と読むのが適切そうである。一首目は初句のような詩的な呟きから、喉元という身体の一部、そのうちに秘める体内の暗さと白さるすべりという撞着語法がレトリカルである。二首目も〈あなた〉への声かけとともに自身が雨になるという展開が面白い。三首目を読むと先程の死生感があり、〈挽歌を誰もつくるな〉という打ち消しが相手の生、それも〈われ〉が独占したい〈あなた〉の生あるいは死が際立ってくるのである。

  逢いたさをひとつの思想へひきあげて鋭く眠る木乃伊少女は

  死がいちばんつよいなどという考えがわたしを殺すまでの青空

 死は近代のテーマのように思えるが、どうか。少女の人を恋う気持ちが数千年を経て思想になる。思慕を計り知れない時間と暗闇が思想にひきあげる凄まじさ、それを二首目は死も含めて自らに引き付ける。この主題、展開は近代の死と恋というようなテーマを超えている。

  釘のようにわたしはきみに突き刺さる錆びたらもっと気持ちいいのに

  触れあえる息の匂いのなまなまと土葬の鉄幹、土葬の晶子

 愛や生、死いう何とも精神分析めいてきたが、むしろメメント・モリに近い感覚だろう。一首目は錆びるという、君に刺さったのち抜けず風化していき、互いに死に至らしめるような状況を耽美的に詠っている。その感覚を知的に表現するなら次の鉄幹と晶子の歌になるのだろう。お互い恋と文学が絡み合い人生をともにし、最後は歌にあるように土葬で埋葬される。その濃密さへの憧れがあるのだろう。

  袖ぬるる恋路とかつは知りながらおりたつ田子のみづからぞ憂き 六条御息所

  滝のような白髪をきみに見せぬためいつでも夜の真ん中にいる 「光らない」

 『源氏物語』に材をとった「光らない」という連作も読みごたえがある。タイトルは光源氏は光らないというシャレもある。他にも数名登場人物が出てくるが、ここではわかりやすく何かと題材になっている六条御息所を引用した。源氏物語の歌がまずは書かれ、その先にそれを受けて大森の歌が続く。夢幻能のような仕掛けがある。大森の歌では光源氏は出てこず、先程からの〈きみ〉が出てくる。歌集全体をとおして生と死だけではなく、源氏物語等の物語空間からも材をとって重層的に主体と〈きみ〉の関係性を描いている。

 本歌集は愛の歌と死の歌が多く収められ、それらは不可分なものである。〈おばあさんになったわたしの傍にいて いなくてもいて 山が光るね〉までくると少々言い過ぎの感もあるが、愛と死を自らの思索と、木乃伊や『源氏物語』の材から深めていき、木乃伊少女が〈逢いたさ〉という個人的、刹那的な感情を数千年の時間と闇のなかで思想にひきあげた営みのごとく展開させている歌集である。歌集名となった『ヘクタール』という言葉はそうした思想を醸成するための場所、面積或いは、そうした思想の占める場所、面積という意味合いもあるのかもしれない。単位に過ぎない言葉が歌集によってひとつの思想にひきあげられつつあるのである。