柿木信之著『ヴァルター・ベンジャミン 闇を歩く批評』を読む

  柿木信之著『ヴァルター・ベンジャミン 闇を歩く批評』は岩波新書の一冊。岩波は文庫より新書のほうが格段に読みやすい。今回は文芸批評事始めn回目として本書を読むことにした。ベンジャミンはドイツ人でユダヤ人で、アンナ・アーレントのいうには偉大な学識はあるが学者ではなく、重大な訳業があるが翻訳家ではなく膨大な書評を書いているが文芸批評家ではない、詩的業績もあるが詩人でも哲学者でもないというなんとも複雑な人物である。アーレントその他の人物評として一致しているのは第一次世界大戦、第二次世界大戦の状況のなかで苦悩しながら批評を書きつづけた文人であったということである。

 本書はベンジャミンの生涯や文業を大まかに初学者にもわかりやすく解説している。幼少期は採光のための天窓から地下室を覗きこむたびに土の精であるグノームを幻視する少年だったと自身の文章で語っている。時折グノームから見られることもあったという。少年の頃はよく幻をみるものだが、成人して散文に書くほど幻を原風景もしくは初期の文学的啓示として大切にしていたのだろう。グノームの幻視は見過ごされてきた要素を真理を凝縮された形で掬いとり、微視的思考を貫くのちのベンジャミンの視点に繋がっている。それをテーオドア・W・アドルノは「メドゥーサの視線」と表現している。メドゥーサというのもまた大仰だが当時のロマン派の言説はそんな感じだったのかもしれない。

 青年期の批評の軸としてファッショ化の道具にされる言葉への批判があった。手段としての言葉は蔓延し、常套句と化し再生産もなく人々を束ねてしまう。ベンジャミンにとって言葉は沈黙の夜のなかに生じ、語るべき言葉の深奥の力を発揮するものだ。手段ではなく示唆や啓示に近いのだろう。ベンジャミンは「言語一般および人間の言語について」で言語とは名である。名とは言語自体の最も内奥にある本質であると述べている。固有名詞を名付けることは、唯一性を肯定することになることを考えれば言語とは名であるということも理解できる。また言葉は翻訳ともいう。未分化の事物を名付け、言語にすることは外国語を架橋する翻訳に似ているからである。言語を名、翻訳と捉えることで、国家に囚われた言語観をラディカルに捉えなおし、政治(国)に従属する近代の言語観の刷新を試みている。また、神話や伝統を振りかざす保守主義を想起すればわかりやすいが、国家、とりわけファッショ化しつつある、に神話性を見いだし、神話的暴力を分析、批判している。神話的暴力は戦争などの秩序措定暴力と、それらを維持する兵役や警察機能の秩序維持暴力に分類できるらしい。激動の時代ゆえに状況論をかなり書いたようだ。さらに「歴史の概念について」で想起することは権力に抑圧されてきた死者たちと連帯することであり、革命とは歴史にブレーキをかけることであると表現している。状況論としていま読んでも色褪せていない。「技術的複製可能性の時代の芸術作品」や『パサージュ論』も本書で触れられているが、前者は有名で後者は岩波文庫で出版されたので原本を読んだほうがいいだろう。専門に勉強しているひとはベンジャミンの状況論はご存知なのだろうが、門外漢は人文学のひとという印象が強い。本書でベンジャミンの生涯と取り巻く歴史を概観することができ、部分的ながら状況への危機感や苦悩を読み取りことができた。