田村広志歌集『捜してます』を読む

  本歌集で最も印象的なのは遺骨収集の歌だ。歌集前半から後半まで遺骨収集の歌はところどころで詠われている。


  三月の喜屋武岬にシャツ一枚一枚脱ぎて砂礫を分ける

  膝をつきガマに二時間捜す姿勢大腿筋がおもいっきり愚痴る

  雨上がり湿気のふかさ糸満のジャングルに遺骨掘る手の滑る


 遺骨収集の息遣いが感じられる歌を引用した。一首目は三月で気温があがってきて、作業をしているとシャツを脱がなくてはならないという歌。一枚を繰り返すところに終わりなき反復感がある。読み上げると〈シャツ一枚〉と〈一枚〉で切れがあり、反復法の韻律的には切れ目なくいきたいところだが、そこを敢て切ることで砂礫を分けるという手触りが感じられる。二首目は下句で大腿筋とピンポイントで詠み込むところが面白い。大腿筋は愚痴るのだが、われ自身は愚痴っていない。自己戯画化されていながら固定された姿勢であること、そしてわれ自身は愚痴ることなく強い意志で遺骨を捜すことに取り組んでいるということが示されている。三首目はジャングルの空気感が出ている。南国風のねっとりとした湿気のある空気を感じさせるのは糸満という地名の力かもしれない。湿気や汗、雨などが入り混じって手が滑るのだが、風土やわれの汗という肉体感覚が一体となりながら遺骨を掘っている。沖縄の抱える風土、民俗的な空気、父の存在、われの使命感が混然として遺骨を掘るという行為をなしている。知、情、意と心理的なはたらきを分類するなら、本歌集は意を強く感じる歌だが、先述の混然とした感じが個人の意思ではなく、超個人的な沖縄の意思を感じさせる。


  父親の戦死の孫だからきっちりと煙管の躾だったよ祖父の

  くたびれてシナ海うつる夕陽見るどこまで掘れば親父にであう


 家族詠、境涯詠も深い実感がある。一首目は祖父、父、われが家系図のように詠み込まれている。煙管の躾というところに祖父の生きた時代すなわち、家父長制がのこる時代の下の孫への責任感を感じさせる。二首目は絶唱である。


  太陽の育てたゴーヤーむっちりの肉厚は遺骨掘る私のパワー

  陽当たりの縁側むかし祖父母たちお茶に目温む、ヨガだったのか


 深刻な歌が多くなってしまったが、思わず笑ってしまう歌もある。一首目は跳ねるような韻律が特徴的だ。〈むっちりの肉厚〉や〈パワー〉というのが言葉として面白い。二首目は結句に読者は「いや違うと思いますよ」ツッコミを入れたくなる。どちらも生真面目に詠っているところに面白さがある。


  先住民ジュゴンにも問え辺野古湾埋め立て基地を作るというなら

  人間をみんな苦手になってきた犬語猫語鳥語に依りあう


 人間側からの視点ではなく、動物の視点で物事をみる歌も興味深い。一首目は辺野古移設問題はさることながら、そもそも環境破壊についてジュゴンのやその他の生き物のことを考えたことはあるのかという歌である。昨今、人間中心主義からの脱却で、動植物、山や石まで多種にわたって研究対象とするマルチスピーシーズ人類学がある。ジュゴンの歌もマルチスピーシーズな視点がある。次の歌は戦争や政治の主体は人間であり、田村はそうしたものと歌、行動を通じて長いこと対峙してきたが、犬、猫、鳥に思いを馳せ心を遊ばせたいということもあるのだろう。前歌集から継続して沖縄や自らのルーツなどのライトモチーフを掘り続け、具体的に行動をしたうえで紡がれる言葉は力をもつ。意の強さと歌の強さ、両立しうるのが田村の歌なのかもしれない。