バタイユと方代はつながるものか

 酒井健著『バタイユ 魅惑する思想』(二〇二二・五/白水社)を読んで思うのは、バタイユの名をよく目にするが実はよくわかっていないということだ。バタイユといえばフランスの思想家で、エロティシズムについて論じており澁澤龍彦や三島由紀夫もしばしば引用していた。岡本太郎もある結社の同志であったらしい。歌人界隈でもバタイユのことを言及するひとがいるが、ペダンティックになる印象もある。というバタイユの難解な印象をいい意味でほぐしてくれる一冊でいい読書体験であった。序論で酒井はバタイユのエロティシズムの考え方である、「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることなのだ」(『エロティシズム』序論)を引用し、「生命の極限に行く彼の姿勢」のことだと述べている。その生とは身体、精神という個体の枠組のなかにあるが、個の延命のための道徳や、安定を求める要求が皮肉にも個の器を強固なものにし、生命を束縛しているというのである。人生の時間軸においいても未来に重きを置き現実が未来の手段になっていることを「推論的な現実」とバタイユは批判している。このような二律背反のなかの生命はバタイユのいうには光より夜の状態である。


 震えながら。孤独な暗闇のなかで、動けぬまま立ちつくしている。身振りをしない懇願者の姿勢で。懇願。しかし手を合わせる身振りはなく。希望などもちろん抱かずに。(略)夜の帳《とばり》が下りて、武器とてなく(略)。(『内的体験』「刑苦」)


 この荒涼な状態から、外部から別の生命のながれに襲われて、激しい交わり(コミュニケーション)の状態になることが光らしい。このあとニーチェに論考が展開するのだが、ひとまずバタイユに言わせると「擾乱こそ根源的である」である。擾乱ときいて合理主義以前の前近代的な民俗的なカオスや、人間心理のアノミーを想起した。岡本太郎の縄文文化論にも土俗的な側面で通じる。

 バタイユは笑いの考え方は、文芸におけるユーモアを考えるにもいい材料になるので紹介したい。笑いは自分自身を笑うことであり、他人を笑うことではない、そして笑いとは死をまたは死を恐れている自分を笑うことであると述べている。バタイユによる笑いはエロティシズムにも通じるものがある。酒井のいうにはプラトンやホッブズなどの笑い観は他者を嘲笑すること一辺倒で、避けるべきものとされていた。バタイユは笑いの哲学的側面を見出したことになる。


  寂しくてひとり笑えば卓袱台《ちやぶだい》の上の茶碗が笑い出したり 山崎方代『こおろぎ』

  フランソア・ヴイヨンの詩鈔をふところに一ツ木町を追われゆくなり 『方代』


 バタイユの笑いを読むと方代もそうだと思えてくる。寂しくては境涯からくる孤独感を想起していたが、方代庵のなかに一人で生きているなかで「死におけるまで生を称えること」への孤独や、死を笑うということは案外多かったことが想像つく。「刑苦」のような極限状態も戦争体験から導き出せるし、そういえば方代の好きなフランソワ・ヴィヨンはフランスの詩人だった。バタイユと同郷だ。詩的に方代とバタイユがつながるとしたら時代感覚とヴィヨンが接地面になる。そんなことをぼんやり考えていた。