春日いづみ歌集『地球見』を読む

 表紙のジャコメッティの彫像と歌集名の『地球見』が絶妙に合っている。詠うこと、書くことはつまるところ地球を見ることなのかもしれないと、時代や自らの生を映し出す本歌集を読んだあとに思われた。


  ポスターの糸杉あをく焔《ほむら》立ちわれは躓《つまづ》くその糸杉に


 ゴッホの絵を思い浮かべるのが一般的だろう。糸杉の存在感に躓くという表現に絵画が気になる様子が身体感覚を伴って表現されている。糸杉の絵の芸術性や霊性のようなものに躓くという歌意だと思いつつも、杉の丸太のようなものにも躓き得るため、すらりとわかるような自然な比喩表現となっている。


  拾ひ来し松笠リースに飾りつつイエスも産声あげしを思ふ

  標的は古都ダマスカスああパウロが目から鱗を落とししあたり


 信仰からくる歌が多いのも本歌集の特徴である。一首目は松笠やリースという素朴な素材から、純粋にクリスマスを楽しむ生活者の視点が前面に出ている。その最中ふと聖誕祭であることを思い、そしてまた生活者的な産声に思考が移っていく。次の歌はシリアの空爆の歌で、パウロが目から鱗のようものが落ちたという聖書からの引用もあり一首目と対照的にも信仰に寄っている。空爆の下には古都とそこに住む住民がおり、命や信仰は武力により蹂躙される。その蹂躙に対して歌や信仰から問題提起するという意図があるように思われるのは、〈萎縮すな自由に詠はむ 否すでに萎縮してゐるわれにあらずや〉という歌も本歌集に収められているからである。世界は驚くべきほど日々多くの情報が更新される。戦争、災害、不覚にも引用歌を読んで筆者は、そんなこともあったなと思ってしまった。歌は忘れかけていた武力介入を思い起こさせ、忘れてはならないと暗示するようである。


  影長くわたしは痩せてゆらり立つ春の海よりはろばろと来て


 巻末の連作から引用した。影長くはジャコメッティの彫像を彷彿とさせるが、春の海よりはろばろと来るというのも不思議な感じだ。海からはろばろと来るのは人間以外の存在のようにも思える。時代や状況は荒々しく早く流れていく。その暴風のようななかに、詩歌、文学あるいは信仰が痩せてしまいつつもゆらりと存在している、そんな風にこの歌を読んだ。