短歌の祭典を夢見て

  短歌結社はある程度規模があるものだと年一回全国大会をする。大きな会場を借りてシンポジウムやパネルディスカッション、お食事会をする。久しぶりに交友を深めたり、改めて自分が文芸創作する場というものを認識する機会になる。以前ぼんやりと短歌全体の催しなどはないのだろうかと思ったことがある。超結社もしくは結社(同人誌や無所属も含め)ごとのブロックで、パネルディスカッションしたり、パネル発表したりするさながら国際芸術祭のような感じのものをイメージしていた。それから時間が流れ、「情熱大陸」や「プロフェッショナル 仕事の流儀」に歌人が取り上げられたり、朝ドラの登場人物が歌人であったりと、俗にいう短歌ブームが到来する。現代短歌の知名度が上がってきたところで、催しも増えてきた。「ヒュー!日向 ヒュー!短歌」は短歌と返歌がマッチングしたなかから数組が宮崎県日向市の観光に招待され、そこでまた歌を詠むという催しである。地方自治体も関与した点から短歌による文化施策という側面がある。短歌が広く周知されてきている様子から、以前からぼんやりと考えている短歌の祭典の機運は高まってきている気がするが、最近はバタバタとしておりそんな夢のようなことを考えることもなかった。

 さて、「はじまりの京都文学レジデンシー」(吉田恭子、二〇二三・四/図書)を読んでいたところ、レジデンシーという概念を知る。吉田によるとレジデンシーとは芸術創作や人文・自然科学研究専念のために大学キャンパスなどに長期居住する制度とのこと。文学レジデンシーは作家を対象に普段と違う環境で執筆に専念できる時間と場所を提供してくれるものである。京都でその文学レジデンシーを開催するまでを綴ったエッセイが「はじまりの京都文学レジデンシー」で、企画の様子や、資金調達のための文化庁のアーチスト・イン・レジデンス事業補助申請に二年続けて落選し、芸術系のレジデンシーが定着し始めたことに反して文学レジデンシーの理解が広がらない事実など苦労が伝わってくる。芸術と違って文学は言葉の壁があることからリアルタイムな翻訳は必須であり、翻訳家の招聘もすることで解決したようだ。

 「はじまりの京都文学レジデンシー」を読み終わり、以前ぼんやりと夢みた短歌の祭典を思い出す。千人以上は集まってしまうかもしれない。アーチスト・イン・レジデンスどころか歌人が街に溢れる。資金調達の側面では文学レジデンシーがマイナーである以上に、短歌レジデンシーは文化庁に理解されないかもしれない。しかし、アマチュアリズムがある詩型なのであまりそこは心配していない。短歌は即興性があり、短い詩型のためレジデンシーのような短い期間でも多くの作品が生まれ、他言語でも散文よりは訳しやすいだろう、韻律は日本語で味わっていただいたり象徴性は注釈が必要だったりしても。一度みた夢はふたたびいつかみるように、短歌の祭典を夢想した。