老いとユーモアとうたびと 田村広志歌集『捜してます』再読

  本文は田村広志歌集『捜してます』批評会発表のためのメモでもある。本歌集は本ブログでも以前触れたが、今回はあえて主題である沖縄以外の歌に視点を向けて読んでいきたい。

 前回のブログの記事で沖縄以外の歌は〈先住民ジュゴンにも問え辺野古湾埋め立て基地を作るというなら〉、〈人間をみんな苦手になってきた犬語猫語鳥語に依りあう〉を引用し、これらの歌は人間中心主義からの脱却、すなわち動植物や山や石なども人文学的に取り扱うマルチスピーシーズな視点があるという読みをした。人間中心で平和や基地問題を考え続けることに、地政学や経済的な利権が絡み閉塞感があるなら、突破口として人間以外の視点に重きをおくマルチスピーシーズな視点がある。一方で先述のブログでは引用しなかったが、そうした視点の背景には〈犬猫や大熊猫の出産に心深く人には関心うすく生きている〉という人間への関心が薄くなった時代感がある。人間への関心の薄さは人文学が痩せる時代ともいえよう。そうした時代感にも対峙している歌もみられるので、本ブログで読んでいきたい。


  おひとりさまの老後を独りは考えぬ命はいのちの膂力にまかせ

  いずれどちらか孤りになるのだはじめから独りというのもありだろう

  言いあてているけどきわめて感じ悪い下流老人というマスコミ語

  後期高齢独り暮らしをご近所はひそひそひそと失火を怖れて

  月イチの民生委員のご訪問安否と後期高齢者失火の注意


 はじめに通読して我の問題として注目されるのは孤独と生、そしてエイジズムの歌である。一首目は下句の〈命はいのちの膂力にまかせ〉に、命は自分ではどうするものでもないという、老境の死生感がみられ、〈命一つ身にとどまりて天地《あめつち》のひろくさびしき中にし息《いき》す 窪田空穂『丘陵地』〉を彷彿とさせる。空穂は広大な天地を引き合いに出したが、田村の歌には〈おひとりさまの老後〉という社会的な視点がみられる。時代といってしまえばそれきりなのだが、老いに対してどこか社会からの外圧がある。大抵は甘受してしまうのだが、下句で〈いのちの膂力〉と命の主体性や力を信じるのである。二首目は独り暮らしは自由の反面、当然ではあるものの寂しさもあるなか、先述の外圧に対して、正論の応答をしている。夫婦であっても同時には死ぬことはできず、老いが進むにつれどちらかが施設や病院にはいる可能性が増すのが今日の高齢者福祉の現状である。孤独という言葉が上下の句で分かれており、孤のほうは孤高ともいうように、精神的な孤りで、独は独居や独立というように少し通俗的なニュアンスがあるのだろう。三首目は一読してわかる。極めて感じの悪いのも共感できる。この正論じみていてどこか実用主義的なマスコミの在り方への批判でもある。また歌集全体を視野にいれるとマスコミに限らず時代への違和のひとつとして読んでもよさそうである。四、五首目は三首目のマスコミへの違和感が、大衆の言動からも感じ取られる歌である。主体の安否を気にするよりも失火という保身が先立つ、小市民的な感じ、民生委員という福祉的大義名分がありながらも、意識は五人組制度に近い、そんな批判がある。しかし、全面にそうした批判ができないのは、社会の外圧が影響しているように思える。そうした葛藤のなか二首目の呟きにも似た歌、自己を相対的に観察し戯画的に詠まれる歌が生まれる。


  菜の花の咲き初《そ》めました和田浦のしかたなかりしあなたの香り

  どう押せば甘沼あふるる水源かあなたの地図は知りたいものを

  ストーブを止めるはつかな灯油の残り香のようだった恋

  餌とぼしき東金山すそ共食いし山椒魚はしぶとく生き継ぐ

  箸一膳珈琲カップ鍋皿一個老いの一人の暮らしは簡便


 ここでも孤と生が主題の歌を引いたが、文学的な気分のする歌を中心にした。菜の花が咲く南房総市の和田浦に、〈あなた〉の香りを感じとっている。人生のなかで出会う愛するひとの記憶が、恋人でも家族でもいいが、和田浦と菜の花の景色に立ち来る。二首目も〈あなた〉が出てくる。一首目と同じくあなたの描写はなく、象徴的に景色が詠われている。〈あなた〉とはかつて愛した人の総体なのかもしれないという仮説に行きつく。美しい景色を目の前にしたり、思い出されたりしたときふと感傷がきざす。そのときひと恋しさとともに現れる〈あなた〉はかつて愛した人の総体なのである。三首目も過去の恋の回想だが、灯油の香というノスタルジーがあり〈あなた〉の気配がある。四首目は東金山にいるという山椒魚で共食いはともかくとして、しぶとくその土地で生きついでいるところに共感している。少し泥臭く山椒魚が生きているところにも、日々地に足をつけて生きるという転換をすると田村の価値観と一致するところなのかもしれない。五首目は上句で単語を畳み掛けるようなところが面白い。度々田村は何々づくしのような方法をとる。往々にして老いというのは重くなりがちだが、本歌集に収められている老いの歌での抒情は心に迫るものがあるし、諧謔はどこか自在の境地を思わせる。


  眼ヨガは温《ぬく》めたる両手押し当ててそのまま十回深《しん》深呼吸

  陽当たりの縁側むかし祖父母たちお茶に目温む、ヨガだったのか

  あわわわっと思うひまなく素裸に鼠蹊部剃毛カテーテル挿入

  寒暑お構いなく並ばせる偉そうなカーネルサンダースラーメン二郎


 我を詠った歌でもユーモアの歌は意識的につくっているように思う。一、二首目は眼ヨガの歌だが、二首目はノリツッコミをいれたくなるような歌。三首目は手術の場面だが、〈鼠蹊部剃毛カテーテル挿入〉と手際よくあられもない格好になってしまうところを面白く詠っている。また、カーネルサンダースとラーメン二郎を並べ、さも両方とも人名のように詠っているが、ラーメン二郎は人名ではない。これも漫才ならツッコミをいれるところだろう。どこか生真面目で、でもツッコミがはいるとニヤリとするような古き良き漫才を彷彿とさせる。

    

  窓ぎわにコーヒー冷めて思い坐《い》る三十九年目の無惨

  戦争法許せぬなれど強行採決この議員《ちんぴら》らを選んだのはわれら

  サンチャゴよわが老漁師力つきるまで戦争法の鮫と闘う

  限定的核爆弾使用「理解できる」トランプの尻馬被爆国の莫迦太郎


 さて、社会詠、とりわけ平和への希求も本歌集の主題である。一首目は〈一月四日金芝河無罪判決〉と詞書があり、デジタル大辞泉 によると金芝河は「[1941~2022]韓国の詩人・思想家。本名、金英一キムヨンイル。李承晩イスンマン政権を倒した四月革命に参加し、以降学生運動を主導した。1970年には長編譚詩たんし「五賊」を発表し、反共法違反により投獄される。釈放後は環境運動を展開するなど、詩作以外にも活動を広げた。きんしが。」と解説されている。昨今ようやくアントニオ・ネグリのいうマルチチュードや、松村圭一郎のいう暮らしのなかのアナキズムなどが浸透してきたが、金芝河の時代は激しい民衆運動の真っ只中だった。その無罪判決を得るまでの時間をコーヒーの冷める束の間に思う。二首目は〈九条の改正笑ひ言ふ議員このちんぴらに負けてたまるか 岩田正『視野よぎる』〉が下敷きになっている。強行採決がなされてしまったことを、われらと自らに引き付ける苦々しさがある。岩田のように負けてたまるかと歌い上げるより、田村は現況のどうしようもなさがあるためか歌い下げている。三首目はアーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』に登場する気骨のある海の男サンチャゴを登場させる。サンチャゴはカジキを獲ることに命を燃やし途中妨害者である鮫と死闘を繰り広げるのだが、同じように田村も戦争法と闘う。四首目は限定的核使用をめぐるトランプ元大統領の発言をめぐって、おそらく日本の政権が理解を示したのだろう。ざっと検索してみたが防衛省の文章がトップに出てきた。いずれにせよ被爆国の態度とはいえない。〈莫迦太郎〉まで言ってしまうところに、田村の言わざるを得ない。むしろここで詠っておかなければならないというような使命感を感じる。


  人は人にとって狼戦争に戦争を養いしむるナポレオン 

  マドリード女子どもも参加した市街戦ゲリラの語源ゲリーヤク

  うっすらの笑みの「着衣のマハ」いくさに殺し続ける人らへ嘲り


 連作「カプリチョス・ゴヤ」より引用した。一、二首目はゴヤの「マドリード、1808年5月3日」を題材にしており、Wikipediaによると「1808年5月2日夜間から翌5月3日未明にかけてマドリード市民の暴動を鎮圧したミュラ将軍率いるフランス軍銃殺執行隊によって400人以上の逮捕された反乱者が銃殺刑に処された場面を描いた作品である。」と解説されている。銃殺されそうな人々がそれぞれ絶望的な顔をして一列に並んでおり、どんよりと重苦しい空気感が絵のなかに充満している。そんな暗頓とした展示会で「着衣のマハ」をみたときに見下ろして笑う構図に嘲りがみえてきたのが三首目。他にもピューリッツァー賞を受賞した報道写真を題材にした歌もあり、戦争や平和を扱った作品から、さらにもう一歩本質に迫ろうとする意図がみられる。本歌集は編年体になっているので「カプリチョス・ゴヤ」は二〇一二年の作品であることはわかるが、本歌集のあとがきにロシアのウクライナ侵攻についての言及があり、以前の作品であっても「マドリード、1808年5月3日」を題材にした歌は特に今日性を帯びる。したがって歌集を編むときに戦争への反論として「カプリチョス・ゴヤ」を選定した意図が垣間見える。


  蟇蛙もわっと岩の下にいてなんだよまだ眠いのにってギョロ!

  砂礫払い指の骨だと確かめて喜屋武岬にチョイヨーイチョイヨーイ

  じりじりと死を押し返す痩身の押す力みなぎる眼光にある 


 主題に関する話が多くなったところで少し文体について触れておきたい。まずは一首目、句が跨がり、細かく切れ、口語で跳ね回るような韻律である。定型にのせて読もうとするとなおのこと跳ねる。蟇蛙のゲロゲロとした見た目や、眠いので跳ねないのだろうが、その跳躍力を彷彿とさせる韻律だ。二首目は下句の〈チョイヨーイ〉が気になる。調べるとベトナム語で何てこったや、オーマイゴッド的なニュアンスで使われる言葉のようだが、如何に。掛け声や、鳥の鳴き声など意味のない言葉ととっても面白く、喜屋武岬に何かいる感じがする。三首目は連作「うっちゃる」からの引用で、岩田正を詠っている。田村が師とあおぐ岩田の文体は跳ねるような軽快な韻律があり、一、二、三首ともに影響がみられる。三首目においては初句、二句に軽く句切れがあり、三句で上下句がわかれるが、そこまで強い句切れでもなく、四句でも切れるという、ぶつ切りで小さく跳ね続ける韻律になっている。


  岩田先生囲んで「千草」の清見左海その真ん中の髪長《かみなが》寺戸

  ああついの訣れなりしよ岩田先生まことにながくお世話をかけました

  穂先まできれいに削り揃えたるえんぴつはなお待てるあるじを

  セザンヌのトイレ出づればすうすうと岩田正の居ないこの世だ


 岩田の挽歌も本歌集の読みどころである。一首目は過去の宴席の一場面で鬼籍に入った歌人の名前が連なる。人に歴史ありではないが、生き生きとその時代の雰囲気伝わってくる。二首目は連作「悼、岩田先生(一)」よりの引用。ストレートな物言いだが、結句の〈お世話かけました〉が、通常だとお世話になりましたなる。能動的にお世話をかけていることになり、師に対する敬愛や、多く過ごしてきた師との時間を感じる。三首目は岩田の人柄の手触りがある。ペンではなく鉛筆にこだわるところや、穂先まで几帳面に削るところなど田村の視点ならではの歌。四首目は〈セザンヌをトイレに飾るセザンヌはトイレに画きしものならなくに 岩田正『郷心譜』〉の返歌である。岩田も田村もわれを詠うことで、自らの生と文学の距離が近い歌人であるが、その二人の文学や生は絡み合うところに挽歌の魅力がある。その個のパトスが歌になり、読者を得ることである普遍性をもつ。


  四人の子遺され戦争未亡人。こぼれ繭なり母のひと世は 『島山』

  蚕豆を剝くふくふく香りたち今宵ちかぢかと亡き母の息

  繭となり蚕《こ》を養《か》うこともなく桑は立ち枯れしたりくねりあらわに


 一首目は歌集『島山』からの引用で、二、三首目は一首目を踏まえた作品であろう。蚕豆の形状や舌触り、蚕や繭という象徴性から母の息づかいに至る。三首目の立ち枯れの桑は自らの比喩のように思われる。蚕に「こ」というルビをふるのも子の掛詞になっていると読める。くねりながら立ち枯れる桑は辛酸嘗めつくしながらも、文人盆栽のごとき存在感がある。岩田同様に母の歌もわれの輪郭をつくる重要な作品である。


  あんこうの季節なりけり飯岡港鍋をほにほに食べにゆきたい

  春の庭くねくねくねるはトカゲの尾猫の咥えて持ち去れるまで

  いちまいの瀑布とひろがり春耕の田へおどりこむ水の体躯※は

    ※躯のつくりは區

  三陸沖下りきたりて売れのこる秋刀魚太りて青輝《て》るあわれ


 最後に筆者が好きな歌を挙げたい。田村が海の歌を詠うと嬉しくなる。過去にハンマーヘッドシャークの歌があったり、『老人と海』が詠みこまれたりと漁師町がどこか似合う感じがするからである。あんこう鍋は特に地物でほにほにという擬態語に、美酒美食の旅情が表現されている。二首目は日常の場面だが、トカゲの尾を猫が咥えるかもしれないというひとつの可能性が面白いし、静かな庭に尾だけが動いているのもシュールである。日常の景色を面白く詠むところに空穂、岩田の系譜を思わされる。三首目は水の変化を体躯と生物のように詠んでいる。瀑布から田までの里山での水を詠っているが、水の形状に着目する点では〈湧きいづる泉の水の盛《も》りあがりくづるとすれやなほ盛りあがる 窪田空穂『泉のほとり』〉のような歌を思い出し、水の一生として読むと横山大観「生々流転」を思い出される。四首目は青く太った秋刀魚が売れ残るという残念な歌だが、東日本大震災や原発の風評被害を暗示している。そのかなしさを秋刀魚に託している。もったいないでは済まされない物悲しさと、その秋刀魚を手に取らないのは無意識な自分かもしれないと思わされる。本歌集の魅力は前回の記事から多く語ったため、あとは多くの読みや議論が生まれることを期待するばかりである。軽快な歌でも一筋縄ではいかず、一首一首主題や批評性、人生の苦々しさなどが込められている。レトリックに偏る歌集が今日散見されるが、本歌集は田村の、われの思想や意思の強さが読みどころとなる。筆者もかくありたい。