最近考えたこと

 ■歌壇は存在しないのか


 平日の労働はカフェインを友として遂行される。夜、やっと文学を噛る楽しみにありつける。何かを書くほど時間も体力も与えられていないことに、資本主義において休養は労働を持続可能にするためのものといわれていたことを思い出す。夜のスタンドは手元を照らし、インスタントコーヒーで満たされたマグカップは夜闇のなか。時折、水面が光を反射する。

 マルクス・ガブリエル著『なぜ世界は存在しないのか』のなかで、マルクス・ガブリエルは饒舌に語る。スラヴォイ・ジジェクも日本の情報学者のO氏もそうだが学者は専門領域になると早口になる。自分の概念を分かりやすく説明しようとしたり、日常会話であっても引用やアレゴリーを挟むからだ。マルクス・ガブリエルに関してはいま読んでいる本で饒舌に語っているので、会話ではなく記述なのだが、その饒舌も本の花である。ついつい読み手も何度も合図をうちながら読み進めてしまう。もちろん依頼されている原稿も計画通り進んだ上でである(弁解)。『なぜ世界は存在しないのか』は乱暴にいうと世界という包括概念の矛盾を暴き、非物質だと心理学的スキームや社会システム、イントラネット、物質だとオフィス、デパートの空間などの意味の場が集まった意味の場は存在するが、世界という全てを包括する概念はないという話だ。ここで短歌を楽しむ者としては、世界に歌壇を代入したくなる。なぜ歌壇は存在しないのか。世界は全てを包括する概念で、世界の外の視点を措けないという欠点があったが、歌壇は短歌を知らない人を措けばいいので、その欠点は解消されている。しかし、歌壇は存在せず、意味の場の集積に過ぎないというのはさもありなんだと思う。SNSと付随するプロモーション、賞、同人誌、特定の属性のアンソロジーどれも意味の場を持つ。バズる、受賞する、同人である、参加する、どれも意味の場で作用する。

 あまり夜更かしがすぎると明日に響く。寝よう。


■令和5年厚生労働白書


 文芸は作中の主体や個人史が語られ、そこから時代感や他者との関係性など世界が開けてくる。第二波フェミニズムで個人的なことは政治的なことといわれたが、文芸はヘゲモニカルな男性性に毒されているところがありながらも、文学批評によりクリティカルな視点が導入されてきた。昨今はケアの倫理が批評に導入されて、文芸とケアのインターフェースが広くなってきたように感じていた。

 「令和5年版 厚生労働白書」をみると「つながり・支え合いのある地域共生社会」の部分で高齢者福祉と障がい者福祉、児童福祉の分野を横断した支援体制の構築が検討されている。今さら社会問題はいくつかの要因があるだなんて使い古された考え方を……と思っていたが、いくつか暗示がある。

 一つはヤングケアラーである。昨今メディアで取り上げられるようになり、地域の福祉に関する研究会や福祉計画、白書にも記載されている。昔からあったものに名付けて急に取り上げるのは日本らしさがある。ヤングケアラーは確かに児童福祉と他の福祉分野を横断している。その他に縦割りの福祉を横断するものとしては若年者の脳卒中や認知症などである。特定疾病は介護保険を優先して利用すべきで、補完するかたちでないと障がい者総合支援法のサービス利用ができない。その人にあった福祉サービスのプランニングが肝要。また、児童福祉サービスも行政の支給決定が必要で白書には介護保険法の体系に近づいてきたと白書にはある。

 このように社会問題が混沌とするなか包括的相談事業(員)が問題の属性を問わずに訪問、窓口対応するなどして初期介入し、多機関協働事業により適切に支援をつなぎ、地域のなかで横断的な支援体制を敷くとしている。聞こえはいいが、ごちゃ混ぜの問題に対してまずはごちゃ混ぜの状態で対応せよと聞こえる。包括的相談事業がなくても従来、末端の福祉の相談員がその役割を果たしてきた。日本の福祉教育はジェネラリストの育成カリキュラムになっているのである程度、非専門領域のケースでも対応できるのだ。ごちゃ混ぜの問題に対して、画一的に包括的相談体制を敷くのではなく、まずは高齢分野でも児童分野でも、複合的な問題でも、目下困っていることに近くにいる相談員が相談に乗り、そこから適切な支援機関につなぐのがいいと思っている。