野獣と人間そして先生 ─坂井修一歌集『塗中騒騒』とジャン・ジャック・ルソー─

  ジャン・ジャック・ルソー著『人間不平等起源論』を読んでいた。キリスト教隆盛の時代に人類学的な考察をしたのは彼の大仕事だったが、『孤独な散歩者の夢想』を読むとやはり手痛い仕打ちがあったこともわかる。ルソーは人間以外の動物(野獣)の振るまいや、近代文明から遠い少数部族の知識から、原初の人間(文中では未開人)は臆病で弱く、お互い助け合う存在と考えた。不平等は所有、服従、権力の合法化と発展した文明社会に起因するものと考え、それは本来は自由や平等に資するはずの技芸にも適応されるとした。技芸は実用性のあるものに限らず、例えば舞いなども多分に漏れないことをルソーはいうのだが、文化的なものを例外としない厳しい視点がある。ルソーを読んだところ思い出す歌集がある。


  「自由のため国家は要るや要らざるや」フランスは国家試験に問へり 坂井修一『塗中騒騒』


 ルソーはトマス・ホッブス、ジョン・ロックを引用しながら論を進める。ルソーは社会契約説の代表的な哲学者であり総括した哲学者でもある。自由のために国家が要るのが社会契約説だが、『人間不平等起源論』には否応なく不平等は生まれることが書かれてある。近代から続く民主主義は不平等に対して社会保障、社会福祉を政策に盛り込みつつ折り合いをつけてきた。一方、〈要らざるや〉は新自由主義のことであろう。アメリカや日本は新自由主義を無批判に受け入れてしまっているが、フランスは国家試験で問うことで、次代を担う若者に国家のゆく末を問題提起するのである。この姿勢に坂井はエスプリを、そしてそれを育んだルソーをみる。


  ビットコイン狂奔の若き眼鏡らよわれは言ひたしルソーを読めと


 若き学生はビットコインに夢中である。急な値上がりがあり、投資対象としても市民権を得たビットコインだが、値動きが激しい。商品を買い、市場の拡大を促し、利益を享受する投資というよりは、値動きに応じ売り買いを繰り返す投機に近い運用がなされる。また、暗号資産の信頼性は技術的に量子コンピューターの普及により揺らぎかねない。通常は前者の狂奔と読むのが正解だろうが、坂井の周囲にいる若き眼鏡らの場合は後者の場合もあり得る。さらに暗号資産はデータサーバの冷却に大量の地下水を要し、地盤沈下を来すこともあり環境正義においても罪深さがある。坂井はルソーを読めと言いたくなる。そこには人間の自然状態から文明と社会の移りゆきを批判的に論じたルソーを読むことで立体的に技術を捉えてほしいという真意がある。


  にんげんは単純無比の野獣なり さう書きそめて鏡見にゆく


 ルソーが原初の人間を規定するときに、その他の動物を例に挙げており、野獣と表現している。坂井は人間ですらやはり野獣であると詠うが、書き出してのち鏡で自分を見つめる。人間は野獣か否か、自らは人間であり野獣か否か、自らは野獣である人間か否か等々、自問自答しているのだろう。そして『人間不平等起源論』を読むと果たしてどちらがいいかわからなくなる。この結論のなさに歌の読み幅がでるが、歌の中で定まって読みとれることは自己を見つめる厳しさである。ルソーが技芸も例外なく不平等の起源と見なした厳しさ、フランスの国家試験にみられる民主主義を問う厳しさ、そしてにんげんは野獣か否か自らに問いかける厳しさは共通しておりヒューマニズムの厳しさである。世界情勢をみても地方に目を向けても必要な視点であり、歌と哲学は活字から囁く。


  柳橋に子をなすは良きにあらねどもかの先生やさびしかりけむ

  先生の病院でぽつり友はいふルソーも泥の恋ありけりと


 ルソーは坂井自身の主題の一つでもあるが、連作「川風」に登場する先生もルソーに関連しているように思われる。逝去した先生と残された子から発して、ルソーの泥臭い恋まで歌が展開する。先生の生きざまがルソーと共鳴し、先生もそれに自覚があったように思える。先生はどことなくフランス哲学の学者を想起させ、先生のルソーはどこか優しい。本歌集は逝去した先生が嘆く時代に共感しつつ、先生やその向こうのルソーと対話するよう詠われている印象をもった。