J・ヒリス・ミラー『文学の読み方』を読む

  文学、さらには短歌の将来は悲観論が多い。短歌滅亡論は定期的に提唱されるし、いわゆる昨今の短歌ブームについても懐疑的な意見が多い。本書では「印刷時代の終焉」という項目で、テクノロジーの変化やメディアの発達で文学は緩やかな死を迎えようとしていると書かれている。漢詩の国である中国も名だたる作家がテレビシリーズ化される小説を書いており、反面で詩歌の雑誌の発行部数が落ちているようだ。アニメもマンガも文学ではないという姿勢は今では古く、ミラーの論調とやや解離があり、また安直な世代論に落としこむことは危険である。しかし、一般的に職場の休憩時間や、友人とスターバックスコーヒーなどで談笑するときにネットフリックスや今期のアニメのお勧めは何かで盛りあがることはあっても、例えば夏目漱石の小説で何が好きか、ドストエフスキー『罪と罰』の訳は誰がいいかなどという話をしても相手は口をぽかんと開けることだろう。いや好みがあるから、実はジジェクの早口のユーチューブを見続けてしまうとかそういう話でもいい。実際はユーチューバーの眉唾健康法や、似非投資理論の話を聞くことが多いような気がする。文学の死とどまらず知の機能不全は昨今肌で感じるようになった。

 本書に戻ろう、ミラーは文学研究においてカルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアル・スタディーズ、メディア研究、ポピュラー・カルチャー研究、女性学などに移行し社会科学に近い方法で論文を書くことも文学の死の徴候としている。かつてのような古典(キャノン)を精読するような研究は学会や大学当局から時代遅れと宣告され財源が絞られる危険性もあるのだともいう。これは文学研究に社会的妥当性が求められてきており、研究者も社会にコミットしなければという意識が強いことに対する懸念であろう。厳しい姿勢であり、例示されていないが精神分析的批評やテキスト批評、環境批評など或るテーゼがある分析批評はミラーの批判の対象であろう。学際的といえば聞こえがいいが、そこにミラーは文学の死をみており、新自由主義への危機感もあるように思える。


  鏡の代わりにただ一滴のインクを使って、エジプトの魔法使いは、たまたま通りかかったどのお客にもずっと昔の光景を現そうと企てます。これが、私の読者の皆さんのためにやってみようかとしていることです。ペン先のこの一滴のインクで、ヘイスロープ村の大工、ジョナサン・バージ氏のゆったりとした仕事場をお見せしましょう。時は西暦一七九九年六月一八日のことです。


 ジョージ・エリオット『アダム・ビード』をミラーは引用し、ホフマン的なファンタジーと、詳細な日付と場所を完璧に備えた古きよき疑似リアリズムの模範例で魔法のトリックという比喩を用いていることが素晴らしいと述べている。つまりエジプトの魔法使いのインクを使った魔法は、まさに『アダム・ビード』の文字であるインクのアナロジーであり、読者は小説内のエジプトの魔法の術中にいることになる。文学とは何かという問いに対して、塚本邦雄の有名な、幻を見る以外の何の使命があらうではないが、ミラーは文学とはバーチャル・リアリティへ導いてくれるものであると考えている。バーチャル・リアリティとはミラーはメタ・ワールドといっているが、日常のオルタナティブや、ハイファンタジーのような幻想で構築された世界である。その欲求は文学作品でなくともコンピューター・ゲームや映画でも満たせる。では、文学作品とコンピューター・ゲームや映画の差とは何か。ミラーは西洋において培われてきた権威であると展開し、プラトンがなぜ詩を嫌ったかなどの考察から始まる。本書の中盤の主題であるが、膨大なので割愛する。

 結局、本書の題名でもある『文学の読み方』とは何か。冒頭にミラーが分析批評の一部に対して文学の死の徴候と述べたところに、そして巻末には批評的な読みを認めつつ、「まあともかく、ただ作品を読んでみるというのはどうだろう」と、素朴な文学に対する姿勢にノスタルジーを感じているところにミラーの文学観が凝縮されている。批評的な読みと素朴な読みは両雄並び立たず、ミラーは批評的な読みの意義を認めつつ、素朴な読みにより価値を感じている。訳者あとがきで馬傷弘利は「批評のための批評ではなく、作品に対する素朴な感動から生まれる批評でなければならない、と提言しているようである」とまとめつつ、底流しているのはミラー独自の脱構築批評理論であることを忘れてはならないと付け加えている。「ただ作品を読んでみるというのはどうだろう」というミラーの言葉に甘えて、ならば難しいことを抜きにして楽しく本を読もうと考えていた筆者は冷や水を浴びたのだった。