ドラゴンイヤーの歌 「うた新聞」(二〇二四・一)を読む

   山中の隠居気取れど気乗りせぬ仕事も受けて師走も半ば 大下一真

  二歩《にふ》打ちて嗤うほかなき敗局も忘れる強さ素人にあり

  手を伸べて取りいだしたる物体の輪郭を撫づ まあ、ハンドベル 春日いづみ

  盲目のアテンドにワインを注がれて支払ふコインの穴や大きさ


 「うた新聞」(二〇二四・一)の第一面の巻頭作家は大下一真、春日いづみでどことなく年末年始感がある。大下の歌の一首目は、僧も走るほど忙しい時期である年末を僧の自らに引き付ける諧謔がある。結社運営や「方代研究」など仕事は多くもたれており、年末ではなくとも走るほど多忙を極めていると思う。二首目は素人には将棋で二歩を家負けても嗤って忘れる強さがあるという意味だが、反語的にでは玄人はどうかという問題が提起されている。将棋に限らずだろう、どこか玄人は態度が堅くなり却って上手くいかないことがある。具体的に何かに当てはめていくとキリがないような視点だ。春日の歌はキリスト教を信仰していることを踏まえて読んでいくと、視覚障害の体験の一場面の歌であってもハンドベルに教会やクリスマスのイメージが喚起される。二首目は視覚障害の体験や、視覚障害者が従事するレストランで食事、会計することで健常者がもつ世界観をたとえば硬貨から解体する。硬貨はコインであり手触りがある。この小さく卑近で具体性のあるモチーフが説得力になる。作品としての読みどころはもちろん、季節感もあり二人の作家を一月号の巻頭作家にしたという選定に編集のセンスがみられ面白く読んだ。

 巻頭評論は田村元の新春エッセイで斎藤茂吉が立ち小便で捕まったことや植松壽樹が酔っ払いどぶに落ちたことなどを、それぞれの歌人のエッセイや日記から紹介し、「生身の人間のすったもんだの中で生み出されるからこそ共感できる」のであってAIやアルゴリズムで生まれた歌は読みたいと思わないと述べている。結論に二〇二四年に生まれるエピソードに期待している。新型コロナウィルスが五類になって社会活動がコロナ前水準に戻ってきた年が二〇二三年、それ以前はそうしたエピソードがあっても意識的にも無意識的にも自粛してしまい表に出にくかったと思われる。年始らしい気分になる。

 特集の一つは「辰年アンケート」で辰年の歌人が二〇二三年の秀歌三首、新春エッセイ、「辰(龍)」を詠んだ自作一首を寄せている。辰に望みを託す歌が多く、空を駆ける龍なだけあって歌柄が大きい。そのなかでドラゴンフライや龍角散など、題詠として上手く処理した歌もあり面白く拝読した。さて、その辰年特集以外にも辰年の歌人、嶋禀太郎は塚田千束歌集『アスパラと潮騒』の評を、濱松哲朗は「今月のうたびと」に連作「バタースコッチ」を寄せている。


  ブレーメンの音楽隊に混ざるにはいくらかひとを騙さねばならず 濱松哲朗


 “ブレーメンの音楽隊”は動物で構成される。どの動物も人間から虐げられていたが、ブレーメンを目指し音楽隊に入ろうと思案するそんなストーリーだったと思う。仮にブレーメンにたどり着き音楽隊に入ろうにも、かつては人間から虐げられていた動物であり、上手くいくかわからない、ひとを騙すしかないのである。主体性を回復するのに騙すという行為を余儀なくするしかないところに絶望感がある。

 さてこっそり宣伝すると筆者も辰年アンケートに寄稿している。新春エッセイは怪人にならないようにしたいという暗さであり、「辰(龍)」の歌も高らかに空を舞う龍ではなく、恐龍の塩ビ人形である。一九八八年生の辰年はバブル崩壊後の低成長時代に突入する時期に物心のついた世代でもあるのだ。吉兆だけではなく時代を象徴する辰になりたい。