空穂と惑星的思考の純粋性について

 命一つ身にとどまりて天地《あめつち》のひろくさびしき中にし息《いき》す 窪田空穂『丘陵地』

 

 空穂を代表する歌で天地という大きな景にぽつんと自身が存在するという読みが一般的だろう。近代以降に自我が文学の主題になるに際して、世界との対比は自我を際立たせる方法の一つでもある。また空穂はキリスト教を信仰していたことを加味しながら、天地という俯瞰した視点は神を意識しているという読みも作家論的には有効である。

 改めてこの歌を読むと自我の問題だけではなく、もう少し天地について一考の余地があるように感じる。例えば惑星的思考というものがある。GC・スピヴァクが提唱したもので、コロニアリズムやネーション等を超えて、地球という惑星上の一生物まで人間を還元する考え方である。グローバリズムにヘゲモニカルな側面がある反面、惑星的思考はそうした力の不均衡から解放されている。したがってポストコロニアルな文脈で語られることが多い。惑星的思考について具体的なイメージを描くときに、一生物としての人間、または自分自身を設定し、カメラがズームアウトしていくように宇宙空間からみた地球を想像することになる。空穂の歌に戻ると、天地のなかに「ひろくさびしき中」に息する「命一つ」のわれが存在するという内容が、惑星的思考の先程の具体的なイメージに類似している。スピヴァクは惑星的思考を、ジョン・ロールズの無知のヴェールを超克し、その先にある正義の概念として想定する節がある。つまり惑星的思考のポストコロニアルな文脈は、ポスト(のち)よりもアンチに近いのである。一方で、空穂の歌にそのような鋭敏さや切なる主張はなく、批判というよりむしろ解放に近い。戦争や人生の辛酸を舐めつくしたのち、魂を世界に解放して惑星的思考に至る。レヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』を想起すると「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」であり、惑星的思考は、コロニアルはもちろんのことポストコロニアルのような人事ともほど遠い概念なのかもしれない。空穂の歌には人間、人という言葉が出てこない。命一つという把握は人間中心主義から脱却しており、また社会批評的な人間臭さもない。勝手に惑星的思考の純粋性があると仮定するならば、空穂の歌は結構当てはまるのではないかと思っている。