臥遊の反復性と空穂の歌について

盆栽の槻の深林《しんりん》わか葉してわが目に近くこころ引き入る 窪田空穂『木草と共に』

尺《しやく》に足らぬ槻の深林《しんりん》おぼろげに木下路《こしたみち》あり目をもて辿る

 

 臥遊という言葉を知ったのは、出光美術館で山水画を見ていたときだったと思う。デジタル大辞泉では床に伏しながら旅行記を読むことや、地図や風景画を眺め自然の中に遊ぶことで、中国の故事に依ると解説されている。臥遊を念頭において山水画をみる。描かれている山道や湖水にかかる橋などを目でたどり、切り立った崖に茂る木々や新鮮な空気を思い浮かべる。さらにもう一歩、絵の中へ、急で延々と続く斜面や湖の少し苔臭い、果てない旅程に少しげんなりし、足腰のだるいことも想像する。何度か試みていると結構たましいを山水画のなかに飛ばせるので面白い。

空穂の歌は槻木の盆栽で臥遊をしている。小さな空間で悠久の時間を湛えた樹木の象徴をつくりだす盆栽の鑑賞の仕方として、臥遊を無意識にしている人は多いだろう。空穂は一首目で盆栽の若葉を愛でているうちに、盆栽の小世界に引き込まれていく。二首目で盆栽の世界にたどり着き木下路を歩いている。目をもてというのが少し説明的だが、ないと臥遊という概念が念頭にないとわかりにくい歌になってしまい仕方ない。『木草と共に』のときの空穂はもう高齢で身近な風景を題材にした歌が多くなるが、庭や盆栽に自然を感じ、旅情を満たしていたのであろう。その静かで満たされた世界と、穏やかな知的好奇心があるところに老いた空穂の人間的な部分が出ている。さて、盆栽の小世界を旅装いの空穂が歩くところを想像すると、さながらこの歌は山水画のようでもある。そして歌を読むことで読者も臥遊をしているような気分になる。

山水画が描かれること自体が臥遊であり、その山水画の無数の鑑賞者が臥遊する。その過程で新たな絵画や庭、盆栽、紀行文、詩歌などが生まれ、鑑賞者の旅情を惹きたてる。空穂の歌もその延々と続く反復性のなかのひとつであるのかもしれない。