吉村実紀恵歌集『バベル』を読む

  現実は理想のメタファ朝な朝な熱きシャワーをうなじに当てる


 現実は理想の暗喩というが、素朴な感覚においては現実が先行して理想があるように思う。しかし、実際にはその現実というものは人々にとって認識されているとも限らない。むしろ、引用歌のように理想があり、現実を理想に近づけるよう苦心している。熱きシャワーは理想から現実へのスイッチなのかもしれない。プラトンもイデア論でイデアが現実に先立つと考えていたし、江戸川乱歩も夜の夢こそ真実といっていた。歌はそれでも現実にメタファとして理想があるという。本歌集を表現する一首のように思えた。


  「リストラは神の配剤」その舌でグラスのふちの塩を舐めつつ

  ものづくり神話の終わりゆくさまを見届ける一兵卒なりわれは


 理想といっても、理想郷とは違う。むしろさまざまな意味での神話に近い。例えば成長を信じることができた昭和という時代もその一つである。リストラはバブル崩壊後に社会問題化した事象である。リストラクチャリングの略で、経営縮小を理由に解雇されるという印象が強いが、もともとは経営の再構築という意味合いである。経営においては手段の一つで、会社を擬人化するなら(法人とそもそもいうが)、病気の会社に処方される薬の一つなのである。実際は多数から一定数の解雇が生じ、その辛さが下句の塩に繋がる。塩はソリティドックの塩と読んでいいだろう。または塩の一粒一粒がサラリーマンなのかもしれない。そうすると主体はノスタルジーに浸りつつ、どこか時の神のような心持ちになっているのかもしれない。二首目は言い回しとしてのものづくり神話があるが、脱成長の雰囲気が蔓延る昨今、ものづくり神話はまぎれもなく比喩ではない神話なのである。一兵卒というのも企業の社員としての言い回しであるが、「神話」においては重装歩兵のような出で立ちをした一人のようである。企業戦士、二十四時間戦うなど、当時の経済活動は今思うと『イーリアス』のような叙事詩の世界だったのかもしれない。


  パンプスは三センチでもトレンチの後ろの衿はもう立てずとも


 さて、叙事詩の世界での主体は高いヒールを履き、トレンチの衿を立てていたらしい。これは武具だったのだろう。いまはその神話も終わり、みられない。一つの物語が終わったのである。〈もう立てずとも〉よいというところに寂寥とともに安堵があり、良くも悪くもある時代を浮き立たせている。


  慈雨のごと生理は来たり 植物に水吸わせつつ時を過ごしぬ

  おさなごも大の大人も憩わせる丘持てりながく忘れていたる

  水底にしづもれるごと抱き合えり君を鎧えるものを剝がして


 経済活動が叙事詩のようであるのに対して、自らを詠うことは叙情詩である。栞文で身体性については東直子が「一人の人生にたった一つ与えられた身体を見つめ、考え、経験を積み、思いを深めていくその折節に生まれた言葉が、一行の歌となって杭のように歌集に刻まれている。」と評している。一首目は栞文で東が詳細に評しているので引用に留めるが、二首目は自らの乳房を丘と表現して、男を憩わせるものであると詠う。一首目とともに身体は自然の一部でありどこか人間という種、もしくは理性を超えた自然現象としての存在のように考えている。そしてその身体の把握と、陶酔感、濃厚な恋の歌が印象的だ。


  詩は常に量産される 派遣切りされた男の拡声器から


 理想にも現実にも詩がある。本歌集を読んで昭和、平成、令和と三つの年号を跨ぎ神話、叙事詩のロマンを感じるのは吉村の構築した世界に他ならない。本歌集を通読したときに、本ブログの冒頭に引用した〈現実は理想のメタファ〉に立ち返る。筆者は常々詩歌の世界から抜け出したくないと思うのだが、現実は理想のメタファであるし、男の拡声器から詩は常に量産されているのだから、現実世界も悪くないのかもしれない。

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