東博の池の死

  東京都上野にある東京国立博物館は、建築的には帝戴様式の代表的建築といわれるらしい。わからずとも雄大な前庭と池、その奥にある本館を目にし、これから鑑賞するであろう展示に思いを馳せたり、本館を鑑賞し終え、余韻を楽しみながら少し庭を逍遥したのちに東洋館にも足を運ぼうかなど考えたりするのが楽しい。自分事に引きつけると森鷗外が三代目の帝室博物館館長をしたこともあり、親しみをなお覚える。日々の生活に追われる人が、俗臭のしない空間に足を運ぶことは、ホモエコノミクスあるいは、ホモソシオロジクスからの人間性の回復であり、経済の立場からみれば有効な余暇の資源なのである。

 東京国立博物館の前庭の池を撤去し、芝生を植え、コンサートやビアガーデンなど多目的に利用することを想定したTOUHAKU OPEN PARK PROJECTなるものが進行していると報道で目にした。なるほど、上記の情感、歴史的景観、および歴史的文脈がすべて削がれ、消費され、ステレオタイプな地方都市のショッピングモールのような空間に変わるようである。過去の歴史的建造物が、改築されたことで印象的だったのは九段会館である。しかし、九段会館は東日本大震災で内部が崩落し、事故まで起きているので、改築はやむを得ないと思っていた。その他耐震の問題で改築された建造物等々は、安全に利用できるという建築の最低限の担保のために改築はやむを得ない。一方、東京国立博物館に関しては安全性が問題ではなく、採算が問題のようだ。芝生を植えてどれだけ採算がとれるのかは疑問だが、海外の世界文化遺産をみると、そもそも文化というものは高コストであり、採算度外視で維持すべき人類史的な事物である。そもそも文化資本に経済資本を持ち込むこと自体がちぐはぐである。

 また今回、気になったのはウェブ版「美術手帖」編集長の橋爪勇介がXで「東博の前庭が大規模リニューアル。これは非常に良い方向性ですね。完成は2027年3月。」(2025.11.11 22:15)とポストしている点である。どう良い方向性なのかは橋爪は語っておらず、漠然と肯定し詳細な部分ははぐらかしたいようにみえる。文化芸術に関するメディアの編集長たる橋爪はTOUHAKU OPEN PARK PROJECTのどこに良い方向性があるのか語る責務がある。また、具体性を欠く無責任な肯定はその分野の一記者としても望ましくない。むしろ問題提起し、議論を巻き起こすべき社会的立場なのではないだろうか。

 昨今の実を欠き、超訳的であり、表層的である文化行政は、芸術文化の有識者の顔をした刹那主義者がもたらしているのではないかと思わされた。TOUHAKU OPEN PARK PROJECTはもう撤回されないのだろうか、これは東博の、文化芸術の或る部分の死を意味する。その場合、有識者の顔をした刹那主義者は死神である。決まってしまった計画を阻む力も権利も当方は持ち合わせていないが、その死を悼みたい。