小島なお歌集『卵降る』を読む

  木の実降る径は私に続きおり卵《らん》降る日々をきみと歩めり

 標題歌、まず一首のみで読みたい。木の実の降る径は君と歩む以前から存在する径で、その径は君と出会って卵降る日々を歩く径にもなったという。木の実、卵、質感は異なるがいずれも命を宿す球体に近いものである。二つのモチーフの対比は本歌集の主題である。

だいじ、より、じょうぶ、の方に今は寄り大丈夫は木の言葉と思う

いまふたり貫く夜はむしろ木に言葉は満ちて桐の木の夜

木のなかのどしゃぶりが搔き消す声を木は聞こえない理解できない

 木の実、ではなく木の歌が本歌集に点在している。一首目の上句によると、大事と丈夫はグラデーションになっており、地続きの概念である。辞書的には大事と大丈夫は対比の言葉ではないため、かなに開き意味性を抑える工夫がなされている。大丈夫は大事と丈夫いずれも包含した概念で、木の静かながら人より長く生き得る安定感があるという歌であろう。二首目の〈むしろ木に言葉は満ちて〉は、一首目を踏まえると、〈大丈夫〉な言葉であったのだろう。下句、結句に及ぶと二人という人間の存在感がなくなり、桐の木という木の世界になる。夜を共にする親密な場面でも動物相的ではなく植物相的な寄り添い方をしている。三首目は、内に秘める激情はメタ的で植物相的なわれ、もしくは植物相的な君は理解できないと詠う。木とは植物相的な主体や君であり、動物相的な主体とは完全に統合しておらず、時に分裂することが引用した歌から示唆される。標題歌には木の実と卵が提示されていたが、植物相は木の実、動物相は卵と対応付けてもよさそうである。

血だらけの下腹内部を私よりきみが見ていてくれた葉桜

妊孕性《にんようせい》 電飾が木を灯すのに似て寒ければまぶしさを見す

 本歌集を読み進めると、卵とは卵子に留まらずリプロダクティブ・ヘルス/ライツのことだと思い至る。リプロダクティブ・ヘルス/ライツは男性とは比較にならないほど、女性は生理心理社会的な影響が大きく、時代の変遷とともに結婚・出産、独身の歌は多く詠われてきた。一首目はそれに比べまだ多くない不妊治療という主題を正面から、肉体的な描写をもって詠い気概を感じた。不妊治療は厳然たる現実問題であり、桜花のような華々しいものではなく葉桜が相応しい。また初夏という季節感もいい。二首目の初句は妊娠しうる性質のことを指す言葉であるが、ここでも木が詠われる。木の実が降る径を歩む主体、あるいは植物相的な主体を、妊孕性という言葉が取り巻く。妊孕性は、卵のような生理学性なものではなく、医学やその他社会性(家族も社会であるということも含め)を帯びる。第二波フェミニズム運動のスローガン「個人的なことは政治的なこと」というものがあるが、小島は政治的なことから個人的なことを取り戻したいのではないか。

 木の主題、卵の主題は引用しおぼろげに読めてきたが、標題歌は木ではなく、木の実である。木に象徴される植物相であるわれが生みだすものとして歌があり、それを木の実と表現したのではないだろうか。木の実降るというのは、われでもあるが、普遍的な歌人・短歌のことであろう。小島は多くの木々に囲まれ、木の実の落下のなか歩んできたのであろう。〈卵《らん》降る日々をきみと歩めり〉は先に引用した歌を踏まえると重みが増す。修辞や主題はもとより、電飾に捉われず、木の実降る径、卵降る日々には、とりわけ歌人の生の本質的な部分があるようで共感して読んだ。