荒川梢歌集『火をよせる』を読む

  あとがきを読むと「いわゆる職業詠に主軸を据え、近作も加えて構成しています」とある。その職業については「私は葬儀会社に勤務しており、かつては葬儀の運営や進行を担当する『葬祭ディレクター』として、接客の現場に立っていました」とある。身近な人の葬儀に参加した人はわかると思うが、葬祭ディレクターとは悲嘆にくれる遺族に寄り添いながら、折衝し葬祭のプランニング、手配、進行運営をする職業である。遺族との心理的な距離や所謂一族のしがらみの配慮や、様々な葬祭関係作法の理解を要する職業であろう。また、業種はインフラの一つでもあり、多死社会や孤独死など社会的要因の影響が大きい。帯文は島田修三が書いており、「他者の『死』はしばしま『いま』を生きる作者の『生』を問い、揺さぶる」とある。確かに歌集を読むと、死者は不特定多数であり、生者は主体の視野に入る範囲であり、ゆえに生者の輪郭が濃く描かれている。ルビンの壺でいうなら、地としてうっすら死がある。しかし、しばしば文化芸術で取り扱われてきた概念的な死とは違い、現実としての死である。死よりも喪というべきかもしれない。多くの人の死にざまを見るということは、人生の最後の生きざまを見ることでもあるし、遺族に目を向けると多くの喪失に直面することでもある。人間の生と死について感心することもあれば、その醜さに失望することもあるだろう。専門職として接するため、過度な思い入れはしないように、訓練はなされていようが、働くのは生身の人間であるため、そう簡単には割り切れない。

余談が過ぎてしまったのは、荒川と筆者丸地が同年の一九八八年生であり、時代感を共有していることにある。バブル崩壊後に生まれ、ゆとり世代というレッテルを貼られながら学生時代を送り、リーマンショック後に就職活動をし、大学卒業時には東日本大震災が発災した。この世代は、高度経済成長、バブル経済の恩恵が吹き飛び、辛うじて豊かさの残滓を後ろに見ながら、低成長に移行する時代が原風景である。次に、荒川は葬祭ディレクターという立場であるが、筆者は医療ソーシャルワーカーという立場で、生業として死と日々接している点にある。ゆえに業界は異なるが本歌集は他人事として読めない。

ボウリングピンの倒れていくように親族席が泣き崩れていく

優しくあれと名を付けられて優しげなほほえみ浮かべ男の子逝く

六人で霊柩車へと乗せたのにケーキ箱ほどにおかえりなさい

 歌を読んでいきたい。一首目は葬儀の際に、徐々に感情の堰を切ったように一人ひとりが泣き崩れる場面である。ボウリングのピンという、葬儀の情感から離れた比喩を使うところに、葬儀の孕む喪または死と、作中主体の距離が表れている。こうした客観的な視点は、当事者である遺族も参列者も持ち得ず、葬祭ディレクターという立場に特有のものだ。二首目も同様であり、逆縁は想像を絶する悲嘆である。俯瞰した視点であることと、優しいではなく〈優しげ〉という距離感に、心寄せはするが過度に共感しないという職業的立場が表れている。三首目は、一首目同様に〈ケーキ箱〉という遺骨と距離のある比喩に意味がある。上句の六人で霊柩車に乗せたという点も、じっくり読みたい箇所である。柩は重いので男性に声が掛かることが多く(以前は枯れるように死ぬというように、遺体は軽かったのだが、現代は病院で死を迎えることも多く、最期まで点滴で水分補給され、ときに浮腫んでいるので重い)、喪服で真っ黒な一族の男衆がここぞと前に出て霊柩車に収棺するという、静かな葬儀のなかでは動の場面である。しかし、荼毘に伏され、戻ってきたときにはケーキ箱ほどになっており動ではなく静である。上句の動があるゆえに下句の静が際立つ構造になっている。これらの歌には職業的な抑制がありつつも、死に至るまでの苦しさを脱した故人に対しての慰撫の抒情がある。

もうこれは葬儀依頼の声だけど依頼されるまでファの声通す

酔ってさえしまえば今日のあれこれもはるかに霞む海の向こうに

朝光に余白の少ない列車なりわたしの影をみんなが踏んでいく

 死者に対しての慰撫は本歌集の職業詠のなかのひとつの主題といえよう。その主題の要素として、職業倫理、人間性、その二つの葛藤があり、その統合として死者に対する慰撫があるのではないかと考えた。一首目は職業倫理を象徴する歌として引用した。受電の際、最初の発声はファの音がよいと社内でされているのだろう。本題を聞き、葬儀の依頼であるとわかると、やや音程を落し哀悼の意を表明するなどするのであろう。この歌を単なるマニュアルの歌と読むべきではない。死、悲嘆に直接接する生業であるゆえに、統制された情緒的関与を要するのだが、自分の心をそう簡単に管理できない。そのための工程が必要なのである。そこには職業的な規範がある。二首目は職業倫理と一個人としての葛藤として引用した。一首目のような工程をもってしても、就業時間が過ぎれば主体は一生活者である。仕事と割り切っても、記憶からは消せずに思い出してしまうこともあり、引用歌のように酒に酔いつつ、はるかに霞む海の向こうまで記憶を追いやらないと、保てないときもあるのだろう。三首目は人間性の歌として引用した。通勤ラッシュ帯の歌で、気持ちのよい朝光が差しながらも、人が押し合い、いい朝に水を差している。そして、主体の影をみんなが踏むという、外界から圧倒される感じがある。シモーヌ・ヴェイユが『工場日記』(二〇一四・十一/筑摩書房)で労働の過酷さを綴ったように、通勤ラッシュから始まる日々の労働は、ある程度内面化し、感性を遮断しなければ続けられない営みである。三首目にはそうした労働の一場面に身を置きながら、内省的な抒情がある。自身の内面にある良心と職業倫理が相まって、死者に対する慰撫といえる抒情を生んでいる。

  はい(と声をあわせて)もちあ、がらないですね 担架の持ち手を手首に巻いて

  持ち手の痕みっしり残る右手首使ってすする春雨スープ

  きみを抱く指先から指先までの五尺にて測る長き白布を

  白布測る指先から指先までの五尺は戻るきみを抱くため

 本歌集を読んで、職業詠と生活詠の間に職業的生活詠があることに気づかされた。一首目は仕事の一場面であり、担架で遺体を持ち上げるのは男性でも大変だが、生理学的な筋力差により女性は更に困難である。指先や手首の小さい筋肉を介在させると力を入れにくいので、持ち手を手首に固定して、上腕や下腿など大きな筋肉を使うという職業的トリビアリズムがある。上句の韻律も臨場感があってよい。二首目は一首目の後に位置する歌で、一首目の一件で、手の痕に例えば内出血のような痕が残ってしまっている。二首目は生活場面(休憩時間かもしれないが、休憩時間は勤務外なので生活場面)であるが、仕事の痕跡が身体に刻まれている。一首目は臨場感のある職場詠であり、二首目は忙中閑ありという歌である。この閑は文学的な時間だが、一首目があるからこそ生まれる時間である。三首目、四首目は連作を読むと技能検定の歌らしい。ウェブ検索で調べると厚生労働省認定の葬祭ディレクター技能審査というものがあり、実技試験もあるようだ。また、その試験は連作を読むとコロナ禍で延期され円滑な受験ではなさそうだが、とにかくその一場面であろう。指先から指先までの五尺は、白布を測るものでもあり、きみを抱くものでもあるというが生と死の対比である。きみに対しては愛を、白布に対しては丁寧さを与えるのだが、いずれの対象にも誠実な心寄せがある。本歌集の抒情の根底には誠実さがある。

  愛は目に見えないのかもしれないが蓋を閉じるの、はえぇなぁ、おい

  職業に邁進せよと御神籤もまだ泥水をのませにくるのか

 給与生活者のペーソスとユーモアも面白い。中堅といわれる年齢になると仕事も肩の力が抜け、ユーモアを見出すことができるようになる。厳粛と思われがちな葬祭会社であっても、また、筆者の勤務するような医療機関であっても然り。元来人間は器用には生きられず、厳粛と思われがちな場ほど、滑稽な出来事があるように思う。

定期券六か月分買う 疑わずつぎの春まで働くために

 最後に共感できた歌を引用した。この仕事、いつまで続けるのだろうと疑問が生じるときがある。あまり好きな言葉ではないがエッセンシャルワーカーは、社会から担ぎ上げられつつ、しかし冷遇されている。ラベリングされる感じが“ゆとり世代”のようである。「一か月分の定期券だとダメだ、多くの内規で退職願を提出して受理される期間である。三か月でもまだダメだ、退職願を提出して、引継ぎなどをして円満に退職する期間である。六か月あれば、きっとまた働き甲斐を見出す出来事なども一つや二つあり頑張れるだろう、六か月分買うか……。」そういった気持ちが歌から読み取れる。

           *

職業詠中心の歌集の鑑賞文の補稿として、最後に職業詠について私見を述べたい。本歌集を通じて改めて考えたことではあるが、直接の関係はないので、読み飛ばしていただいても構わない。仕事、生業、労働、呼び方は様々だが、働くという営為は、常勤職だと一般的に一日八時間である。残業をする場合はそれに数時間追加され、通勤時間を加えるとさらに膨れ上がる。仮に健康的に八時間以上睡眠したとすると、八時間以上労働するということは、私的時間を上回る。それが週五日間続く。当たり前のことであるが、勤め人にとって最も多く時間を割いているのが労働である。その隙間に生活、そして余暇が入り込む。歌人ならばそこに短歌が入り込む。短歌における主題において、聖俗やハレとケがあるとすれば、実感が色濃く表出するような職業詠は俗寄り、ケ寄りにカテゴライズされるだろう。しかし、果たしてそれは正当なのだろうか、学問や芸術のみが表現し得る体系を持っているのだろうか、そんなことを自問自答していた時期があった。どの職種にも体系があり、職能、スキル、職業いう意味合いでアートとも呼ばれる。これらは社会において正確に良質に遂行されることが主目的であり、昨今、クリエイティブな仕事という言葉もあるが、まず正確さ良質さをもって遂行することが第一となろう。表現とベクトルが異なるゆえに、職業詠は現代的な主題の一つであるが、文化的側面というよりは、職業的な特異性に注目されがちである。機能美という言葉があるように、造形物には造形美が宿り、非物質的な所謂サービスには所作や気配りなどに美や潔さが宿る。

  しっかりとリンゴが林檎の香りしてこういう仕事をしなさい、私

本歌集でいうとこれらのような歌の精神性が該当する。他の歌にも例えば、先に引用した〈きみを抱く指先から指先までの五尺にて測る長き白布を〉のように白布を指で測る所作など、多くの美が見出されよう。これらの美について今後多くの鑑賞が集まることを期待したい。また、職業詠をつくることはそうした短歌における状況に対する、また短歌と労働の二足の草鞋を履く多くの歌人に対する復権だと思う。