第三十七回歌壇賞受賞作は霧島茉莉「柔らかい襟」。受賞のことばにあるように、かりん誌には生業である病理医の歌を主軸として詠草を出していたので、主題が異なる連作「柔らかい襟」は新鮮に読んだ。
四肢でなく空間でなく人の目を見据えて逸らさぬ対戦相手
脚一本かわした突きはあざやかな気骨の構え師を異にして
空手の試合の一場面である。一首目、四肢のどこかを見ると視野が狭くなり、死角からの攻撃が来ることや、フェイントに惑わされやすくなる。空間に気を取られると場外近くに追い込まれる可能性がある。一方で、相手の目を見ると全体がぼんやりと見え、先のような不都合はない。また、相手の呼吸や気の動きを感じとり後の先を取ることもできる。二首目は師により異なる部分もあり、新鮮に相手を捉えている。一首目の攻め合いののち、二首目で技が出るという展開がある。攻防ののちも決定打はなく適度な間合いで落ち着いている場面であろう。選考座談会で吉川宏志は「他流への敬意を抱いている。そうした相手を尊ぶ精神性がとても好きでした」と語っていたが、所謂礼に始まり礼に終わるといったような一般的な武道の認識で片づけてしまっていいのか疑問が残る。また、東直子も「東京オリンピックで空手の選手が眼差しはライオンに学びましたと言っていて(笑)」と述べているが、東が言っているのは型による試合であり、一方で本連作は組手の試合であり別物である。目の使い方が異なる。一首目、二首目は、双方が読み合い、相手のことを探り、または相手を知りたいという気持ちが根底にあり、そこから突きや蹴りなど技を繰り出す場面である。突きや蹴りは武道においてそもそも身体的な記号表現であるが、“空手の場面を詠んだ短歌”という表象においてはより記号表現の要素が濃くなる。したがって、上記の場面はL・ヴィトゲンシュタイン『青色本』のいうところの言語ゲームといっていい。選考座談会を読む限り、なんとなくの空手像が前提となって議論が進んでしまったため、わかっている風な読みになっていることが否めない。結局、終盤には東「空手より差別が一番大きなテーマ?」、吉川「差別に対峙して自分をどう作っていくかということではないですか。」という展開になり、主題として二者択一的に差別が押し出されてしまったのだろう。
ガイジンと呼ぶ声は誰さびしさはだれでもなくて手放さずにいる
胸郭の底には虹を結ばせたい差別語が僕を通ったあとに
さて、東、吉川がいう主題である差別であるが、一首目が連作中に一番明示的に詠われている。上句の主格はぼかされており、誰かが「ガイジン」と言ったということしかわからない。下句も主格の判別が難しく、主体が寂しくガイジンという声を自分に引き付け、自分のアイデンティティが浮遊しているような寂しさを覚えたのか、「ガイジン」と言った人がさびしいのか読みを明確に絞ることができない。しかし、ガイジンと声を発した人と、主体は完全に断絶がある雰囲気でもなく、さびしさを通じて繋がっている。二首目を読むと、主体と客体が繋がっているという読み筋の説得力が増す。東発言の「空手より差別が一番大きなテーマ?」についてだが、差別と空手、二つの歌は連作に混在している。そのため、両者は霧島の中では不可分であると読んだほうが誠実なのではないだろうか。いずれも個別具体的にせよ、漠然といているにせよ、主体と客体があるという共通項からも不可分であることが示唆される。そして霧島は向き合って生身で対話することを望んでいるのである。
真ん中に撃ちこむひとと信じては重く構えたサンドバッグ
さらさらと葉は散り光は散り海は不屈であれと眼差されている
この二首はそうした主体、霧島の決意表明の歌と読める。一首目は真ん中に撃ちこむのは突きでも蹴りでもなく、心である。二首目では海という、国境を問題にせず、イデオロギーを超越し、死者も眠る大きな存在を支えにしている。二首目を読むと、一首目の〈重く構えたサンドバッグ〉の意志の重さと深さがわかる。
では、主題は結局何になるのか、吉川の先に引用した「差別に対峙して自分をどう作っていくかということではないですか。」や、「個別的な差別というより普遍的なものをうたっている気がします。」という発言がそれに該当し、まとめると個別的な差別から普遍的な主題に展開させ、それをアイデンティティの問題に昇華しているといったところであろう。そこには片手落ち感がある。仮に吉川のいう主題であるならば、自我と外界の二項を立てて、連作はモノローグ的に展開することになる。しかし、連作は身体を通して主としてダイアローグである。霧島は一連を通して時に敵性のある他者、死者、そして何より自分自身の対話を描きたかったのではないか。そして、身体言語による接触により、自他は混在していく様をイメージしていたのではないだろうか。デジタル化や加速主義により、そうしたヒューマニズムは蔑ろにされている風潮があるが、あえて敵性のある他者を仮定し、身体を使い、時間をかけるというコストをかけて対話を試みる姿勢に新たなヒューマニズムがある。