歌林の会にはかりん賞とかりん力作賞のニつがある。比較的若手歌人対象のかりん賞と、ベテラン歌人対象のかりん力作賞という分け方で差し支えなかったと思う。今回は第二十一回かりん力作賞についての講評を、東京歌会の後の批評会で担当することになったが、諸事情あり見合わせたため、本ブログで公開しようと思う。受賞作は檜垣実生連作「海賊の島」と刀根卓代連作「わたつみの雲の夕焼け」で、私は檜垣作品を担当だ。
「海賊の島」は村上水軍の伝説が残る瀬戸内海のどこかの島が舞台で、内面を詠った歌も水や海のモチーフをもとに詠まれており統一感がある。作者は愛媛県今治市生まれということでまさに瀬戸内海が故郷で、回想の歌でも海が出てくる。海沿いで生まれた方は海を起点にものを考えたりすることが、内陸生まれの人より多いかもしれない。当たり前といえば当たり前だが、サピアウォーフ的な現象だ。
なにもかも海に捨ててたふるさとはさびしい舟の集まるところ
月夜には魚になりて泳ぐらし恋人がいる島のイノシシ
島島をのみ込むように霧が湧く 再発告知されるだろうか
海賊の島に土葬の父の墓 土を拾って墓じまいする
冒頭の歌から引用した。冒頭は連作のはじまりらしく場面設定や、予感を感じさせる歌を置くことが多いように思われるが、この歌もまさしくそんな歌だ。捨ててたものは思い出や、後に出てくる家族のことか、それとも島自体を捨ててしまったひともいるのではないかなど考えさせられる。またさびしい舟というのは狭い島々を渡るための小舟や、元島民の比喩かもしれないなど、読者の想像が膨らむ。イノシシの歌は、〈うるはしき牝鹿を恋ひてさ牡鹿は海を渡るといふ波の音 馬場あき子「瀬戸の島にて」『渾沌の鬱』より〉を想起させる。瀬戸の動物は泳げるものが多いようだ。イノシシが月夜に魚になるという奇想が面白い。これもお伽噺のようにイメージしてもいいし、ヒエロニスムボスやエッシャーのような超現実的な風に読んでもいいのだが、連作全体の雰囲気を考えると前者のほうがしっくりくる。イノシシのような野性味のある姿から、月夜には細く儚げな魚になるというところに、作者の内面が投影されているように思える。というのも、全体として恋の歌が多いからだ。作者は六十代後半で、作中主体も作者に近い像で設定していると思われ、そのなかで恋の歌を詠うということは、イノシシと魚の二面性があってこそのように思える。恋人と一言添えるだけで、イノシシが擬人化してきて、魚に化けるのもありかもしれないという、戯画調なイノシシを読者が想起する。イノシシが魚になった上に恋人を恋うというのは一首の中で盛り沢山な気もするが、戯画に読者を誘導することで無理はあまり感じない。島島をのみ込むように……の歌は六首目で、父の墓は七首目だが前半にテーマ性の濃く、海の場面設定を活かした歌が集中的に並んでおり、前半だけでも読み応えがある。再発告知というのはがんのことだと推測できるが、この歌で外から内に目線が向く。故郷の島にいるのだが、心理状態のように霧が湧いてきて、病の不安が霧のようにもわもわと立ちこめてくるのである。ただの霧ではなく故郷の霧というのが切実で、自身の子どもの頃から現在までの個人史的な時間のメタファーであろう。父の墓については土葬という部分や、海賊の島と一体になっている父というところで、史実につながる父という意識がある。われについては個人史的時間の広がりがあり、父については史実的な広がりがあるというのも対照的である。
吃水線は危険水域超えていて溺れるように君と別れた
あなたとの離婚を二回くり返す 白紙の一枚に判を捺したり
淋しいがアイタイにかわる洋上に夫婦のようなアホウドリ見ゆ
手のひらは小さな器雨降れば河童のような水掻きほしい
本連作では相聞歌が多く収められている。一般的には夫婦も時間とともに関係性が固定化されて、ある程度年齢を重ねていくと相聞は減り家族詠に寄る傾向があるように思うが、本連作では繊細な関係性を示唆する歌が多数あるのが特徴的だ。危険水域を超える吃水線は船舶の沈没の可能性を秘め、またさらに溺れるようにと直喩を重ねることで君との別れの大ごとさが伝わってくる。海のモチーフで統一感あるように読めてしまうが、上句が換喩になっていて、下句が直喩になっており比喩が重ねられている構造になっている。連作の中で離婚の歌があり、それもあなたと二回くり返し離婚をするというところで、ただの離婚ではないことがわかる。そうしたことから、一首では読みきれないが、連作で読むと相聞歌は独自性を持ち始める。淋しいがアイタイに変わるというのもポップスの歌詞のような言い回しだが、連作で読むと他の歌が作用して、感傷的な抒情が醸し出される。かりん力作賞は「かりん」誌の歌を再構成して応募する形式だが、本作の場合は構成の部分がいい方向に作用しているように思える。海のモチーフが全体的に多いが、水つながりで河童の歌も面白かった。手のひらに水掻きがないので雨が漏れてしまい感傷的な歌だが、河童というユーモラスなイメージが緩衝材になっていてあまり湿っぽくなりすぎないでいるところでバランスがとれている。
さて、テーマに少し寄りかかって論を進めていったが、水のモチーフから離れた歌も連作中に収められており、眼目や比喩が面白い。
伸び切った輪ゴムのように伸びしろの輪が広がっている 再再婚は
真夜中のコンビニにある蒟蒻がぼくをみているあなたのようだ
冷蔵庫に逆立ちをするマヨネーズぼくは一人だ迷ってしまう
伸び切った輪ゴムというところに、年が経ていることを想起させられるが、その広さを伸びしろの輪と捉えているところが面白い。厳密に読むと伸び切ってしまっているので、広さはあれど伸びしろはないのだが、そのあたりも、織り込み済みで、多少自嘲や諧謔が隠されているのかもしれない。真夜中のコンビニというと静けさや寂しさがあり、その中にビニール袋に入っているぶよぶよとして悲しそうな姿をしている蒟蒻を擬人化して、あなたに重ねる。あなたのような蒟蒻ではなく、コンビニにある蒟蒻の在り方があなたのようというのが、繊細な感覚だ。
さて、これまで引用してきた歌はほぼ海や水がモチーフになっている。少し多用されているところが気になって読んでいたのだが、おそらく作者にとっては海と、故郷・家族など自身の原点とが不可分なものになっており、抒情するたびに海の心象風景があらわれてくるのかもしれない。過去にも未来にも海は存在し、作品の中で海を通してわれは子供自体を回想したり、現在を見つめたりしているのだ。また、再発告知の歌や、父の土葬の歌、村上水軍の歌などどれも連作の核になりそうな点在しているが、一首のみの言及にとどまっている。たとえば村上水軍が拠点とした瀬戸内海は700ほどの島があり、生態系や海賊行為に活かされた地形などがある。また、小説の題材にもなっておりカルチャルスタディーズ的な切り口でも楽しむことができるであろう。再再婚も水のテーマや巧みな比喩以外にも、心的葛藤や緊張感などが読み取れる歌などがあるとさらに読み応えが出てくる。今後はさらに一つ一つのテーマを掘り下げていき、それらが作者のなかで混ざり合い作品世界が築き上げられていくことを期待したい。
大島に八十八の札所あり海賊風味のお接待をせり 檜垣実生「かりん」二〇一九・一〇
船折れ瀬戸に指紋のような渦がまき水軍太鼓の音が聞こえる
わが父は水軍のごとき航海士あには機関士われ通信士なり
その後のかりん誌に村上水軍を下敷きにした歌が発表されている。札所めぐりにお接待はつきものだが、海賊風味というのが抽象的だが面白い。新鮮な海鮮の振る舞いがあるのか、大雑把なのかわからかいが雰囲気がいい。渦潮のことを指紋という比喩が独特だ。指紋ということで大きな人間がいるのではないかという奇想とも読めるし、指紋は自らのみのものであることから、故郷における思い寄せを読み取れる。視覚的イメージだけではなく、下句で聴力につなげているところがいい。最後の歌は村上水軍の史実を自らに接続させる歌である。自分だけではなく兄や父をとおして自らに寄せていくというのは説得力がある。