小田桐夕歌集『ドッグイヤー』を読む

  くりかへし波のかたちをめぐりつつあなたのなかを飛ぶかもめたち


 冒頭の連作の一首。海とかもめの光景は美しくも、合わせて描かれがちだが、この歌はそうした使い古された印象が一切ない。波のかたちという海の表現により歌に動きがでる。そして、あなたの内面をかもめが波のかたちを巡るように飛ぶという。あなたの内面に海があり、それは凪いでいるわけではなく波立っており、あなたにも息遣いがあることがわかる。言葉のひとつひとつは難しくないのだが、やや複雑な構図と幾層かの読みがある。


  知らぬまに腰まで波に浸かつてた、そろそろ上がるべきでせう、陸《くが》


 やはり海ではなく波と描く。波はあなたのなかにあり、恐らく自分のなかにもある。世間の荒波という言い回しがあるが、その波というのはたくさんの波が合わさるために荒波と化してしまうのかもしれない。波はときにひとを溺れさせる、また、波に呑まれるともいう。しかし、腰まで波に浸かっていても、それをふと自覚し、そこから上がるべきか問いかける。ノスタルジックな歌や内面的な歌のなかにどこか落ち着きがあるのは、波に浸かりつつも、陸に上がろうとする覚醒している側面があるからなのだろう。


  まぐかつぷかつんとふれてしまつたな、としかひやうのない口づけだつた


 旧かなで口語だと不思議な浮遊感がある。読みにくさが意味を抑制しているし、〈まぐかつぷかつん〉は〈マグカップかつん〉よりも、〈かつぷ〉、〈かつん〉が類似しており視覚的な韻律がよい。このゆらゆらした読み味が相手とのゆったりとした恋愛の雰囲気を表している。


  たいをんが私にはある 脱ぎをへてシャツを木製の肩にかへしぬ


 体温のやどるシャツをハンガーやトルソーのような〈木製の肩〉に返すという抑制された歌。必ずしも相聞歌とはいえないが、自らの身体の体温の知覚にエロスがある。しかし、それを謳歌せず、ハンガーに掛けて、片付けてしまうのである。


  かつて母も好んだらしい志津屋パンまんなかに在る餡のたしかさ


 抒情を抑制させた歌、詩的な処理を経る歌を読む際に、読者は立ち止まり考える。この歌を読んだとき餡パンと母の関係について考える。餡のどっしりした存在感と志津屋という固有名詞から、餡の存在感の確かさだけではなく、母の〈好んだらしい〉という記憶の確かさをも持ち合わせる餡パンだとわかる。下句の餡のたしかさは、主体の考える母が好みそうな餡パンの要素の一つなのだ。


  ささやかなやくそくひとつ果たすごと木の芽をぱん、と叩きて祖母は


 先述の志津屋パンの歌でも思ったが、読者が立ち止まり考えることで、歌意に達するまでの時間が生じ、必然的に読みが深まる。祖母の木の芽(山椒だろうか)を叩く動作はわかるが、それが約束を果たす動作なのかはわからない。しかし、木の芽を盛り付けるときに、祖母は必ず叩き、空間がわずかに香る。主体は少し祖母の動作を異化して見ているのだろう。母より少し遠い存在で、しかし大事なことを知っているという存在のようだ。


  飲みをへるときには氷は直列となれり琥珀の酒のグラスに


 最後に好きな歌を引きたい。本文に挙げた歌、挙げていない歌も好きな歌があるが、引用したこの歌は先に引用した歌に比べて主題性はない。しかし、瞬間を捉える良さがあり、歌集の特長でもあり面白く読んだ。歌集全体をとおして、瞬間に消えてしまうもの、少し漠としているものを一首に結晶化させているそんな印象をもった。その結晶のなかを覗くと内部の模様がゆっくりと語り始めるようである。