今回は歌集鑑賞というより限りなく筆者の感想文に近いことをはじめに述べておく。逆編年体の歌集は編年体の歌集より少ない。本歌集はあとがきに「記憶は終わった過去ではなく現在進行形で変わり続けており、私と共に息づいている。」とあり、記憶を呼び起こし詠われていくような構成になっている。デカルトが『省察』で肉体は変化していくが、精神は変化しないと言っていたが、記憶はゆっくりと変化しつつ肉体よりも変わりにくいもので、ちょうど肉体と精神の中間にあるもののようだ。
転院し転院し隙間見つけゆくスプーンと赤いマグカップ持つて
散弾銃あびながら銀杏散りゆけり散つて散つても銀杏は尽きず
ああそこに母を座らせ置き去りにしてよきやうな春、石舞台
本歌集とりわけ、連作「Place to be」を読んで考えさせられた。一首目は「こんどどこにいくの?」という詞書がある。日本の医療制度では病状によって対象になる医療機関が違い、転院を余儀なくされることがある。したがって回復・悪化と繰り返すと何度も転院することになる。筆者も病院で退院の支援をするのが生業なので、転院をお願いする申し訳なさや点々とするさもしさのような感覚は、日々感じている。生活必需品はほとんどレンタル品で補えてしまうため、わずかな私物を持って自分が居られる場所を求めて転院するのだ。スプーンと赤いマグカップという小さなもので、しかし愛着のある(でてくる)ものが拠り所になってしまうという実存的な問題がある。読者は散文では表現できない感情を歌によって感じるのだが、医療に携わるものはこうした感情を患者やその家族が抱いていることに自覚的でなくてはならないと思った。二首目は病院外の場面だが、病状が不安定な母を案じながら生活するときの心情が反映されて、散弾銃と散る銀杏という死や滅びを想起させる歌になっているのだろう。三首目は前後に京都の歌があり、石舞台という題材から京都旅行を母としたときの歌だろう。歌集の後半にあり、逆編年体であることを考えると、「Place to be」より何年か前の歌で、そのときから母への微妙な思いを抱いていることがわかる。石舞台は春のほのぼととしたなかで、作者の中では美しい・心地よい場所とされている。しかし、石舞台はあくまで石舞台で、置き去りにしていくわけにはいかない。そうした母に対するアンビバレントな感情が変化しながら続いていくのである。老いた親に付き添うということは、スピリチュアルな痛みも伴い、苦労や悲しさという一言では表せない。また詩歌にすると感情や厳しい現実が先走ってしまいがちになっている歌もみられる。川野は生命や存在について粘り強く考えて、思って一歩踏み込むことで歌をつくっている。
地団駄踏むはなびらはなびら亡き人のはなびらのやうな足裏あまた
また、母の記憶だけではなく、戦争や沖縄などを扱った歌もあり、現代では薄れつつある記憶を呼び覚ますように詠っている。地団駄の歌はさくらの花びらで、徴兵されて戦死した人々への挽歌だが、それだけではなく、その家族も含まれるのかもしれない。若くして戦死することについて想像をめぐらせると悲しいだけではなく、家族とその将来を戦争に奪われて悔しいという思いが湧いてくる。桜として散った人々の地団駄が花びらとなって日本の大地を染めるという大きな歌だ。
母死にて友死にてわれは生き残り旨味増したる肝和へつくる
ごくまれに海鳥を襲ひ呑むといふ鮟鱇といふ阿鼻叫喚が
家族を看るということは、家族愛というきらきらしたものでもなければ、孝行のようなものでもない。看られる側も看る側も命を剥き出しにして向き合うのである。そうしたある意味、究極の家族の関係で生命について考察が深まるのは不思議ではない。肝和えは生命の象徴で、この歌での生命は若芽の息吹のようなフローラ的なものではなく、むらぎもというようなファウナ的なものである。そしてその生の混沌としたものが鮟鱇につながってくるのかもしれない。三省堂新明解四字熟語辞典では「「阿鼻」は仏教で説く八熱地獄の無間《むけん》地獄。現世で父母を殺すなど最悪の大罪を犯した者が落ちて、猛火に身を焼かれる地獄。」とあり、単に悲惨で泣き叫ぶという意味ではなく、鮟鱇という地獄の入口のような口をもつ深海の魚が、地獄とりわけ父母を殺めたという意味も含意して海鳥を飲み込む様はおそろしいほど迫力がある。
生きにくさを扱った歌も、若者が社会において生きにくいという題材よりも、もっと普遍的かつ掘り下げられており、それが最後に挙げたおっぱいパブで結実しているのに驚いた。
餓ゑし男に授乳する女 そのやうに〈おつぱいパブ〉ある日本は餓ゑて