本歌集は二〇一九年四月発行になっており、短歌研究社の企画である平成じぶん歌の歌も収録されている。したがって、平成を総括するような歌や、そこから自分のルーツを探る歌が収められている。ネットで短歌に人生を詠むことについての議論が一時期みられたが、文学・文化全般を巻き込みながら生きてきた歌人の歌集を読むと、人生は豊穣な題材であることがよりいっそうわかる。
食べること飲むことそして歩くこと冬陽のように人恋うること
六百年のたぶの木蔭で整えるウォーキングのいつもの息を
あや取りを誰としたのか指先に百日紅《ひやくじつこう》の香りが残る
鯖はたぶんノルウェー産それはそれこよなき柿の葉鮨となりたり
六百年のたぶの木蔭で整えるウォーキングのいつもの息を
あや取りを誰としたのか指先に百日紅《ひやくじつこう》の香りが残る
鯖はたぶんノルウェー産それはそれこよなき柿の葉鮨となりたり
生活の中の歌を中心にみていくと、生活の中で自らに焦点を当てて歌をつくっているということがわかる。一首目はまさしく飲食と少しの運動のなかで規則正しい生活しているという歌。そのなかで、詩的な下句がきいてくる。明るくどこか儚げでそして、暑苦しくない冬の陽のような人への恋しさは、純粋で普遍的な思いであるが、散文では説明できない抒情である。相聞歌というより、家族や友人などへの愛がそうさせているようにも思える。また次の歌はウォーキングの呼吸と古木の呼吸のシンパシーがある。やや字足らずなのだが、ウォーキングの〈ウォ〉の部分をやや溜めて読むか、さっと字足らずで読んで息を整えている雰囲気を味わうかで読むことができる。百日紅の歌も先の冬陽の歌と同じく人を恋う歌だ。作り方はロマン調の歌で、抒情の質的には侘びがあるのだが、材料が美しく上手い歌である。鯖の柿の葉鮨の歌は、ふとノルウェー産かと勘ぐる思考回路が面白い。キマった歌だけではなく、軽く穿つ視点が短歌の魅力でもある。
「やくじぞうさん」は厄地蔵さんと後《のち》に知る母と詣でしやくじぞうさん
「はっかけばばあ」と囃すとき幼きわれが居る彼岸花咲く甲斐が嶺の野に
ぎんなんを大叔母が拾い祖母が拾いそれから長い冬の夜咄
落葉松の針をつまみて手に載せるわれの肩からかたわらの手に
「はっかけばばあ」と囃すとき幼きわれが居る彼岸花咲く甲斐が嶺の野に
ぎんなんを大叔母が拾い祖母が拾いそれから長い冬の夜咄
落葉松の針をつまみて手に載せるわれの肩からかたわらの手に
故郷である甲斐の歌が、繰り返し歌集に収められている。本論冒頭で述べたように平成を詠うとおのずから境涯詠に通じるところがあるのだろう。〈やくじぞうさん〉は〈やくじ/ぞうさん〉とも読めて幼心に聞くと何が何やらわからない言葉のひとつかもしれない。のちに厄地蔵さんだと気づくときに、一緒に詣でた母も思い出すのである。〈はっかけばばあ〉についても前後の歌で歯っ欠けでも葉っ欠けでもいいとあるが、幼きわれにとっては呪文だったかもしれない。ゆえにひらがなで、はっかけばばあと囃すと甲斐の原風景が浮かぶのである。そんな甲斐では銀杏や夜咄をとおして厨の系譜が受け継がれている。風土を詠うことで、個人史と民俗誌が一体になる感覚がある。これは環境詩学という視点からも読めると思われる。環境詩学とは、「自然からの疎外を自覚しつつも、詩的言語を通して、作品が示す大地に根ざした存在様態に立ちかえろうとする思索的実践なのである」(環境詩学、https://www.asle-japan.org/%E7%92%B0%E5%A2%83%E6%96%87%E5%AD%A6%E7%94%A8%E8%AA%9E%E9%9B%86/%E7%92%B0%E5%A2%83%E8%A9%A9%E5%AD%A6-ecopoetics/?mobile=1、最終閲覧日二〇一九・十一・ニ/文学・環境学会)。そして落葉松の針をかたわらの手に載せることで甲斐の自然を他者と共有することにもなる。歌をとおして歌の中の甲斐が立ち上がり、われから他者へ共有されていくのである。
山峡を行き交う〈交《か》い〉の国にして甲斐は隠《こも》れるみほとけの国
三枝守国建立という伝えあり淡きえにしがあるのかどうか(大善寺薬師堂)
三枝守国建立という伝えあり淡きえにしがあるのかどうか(大善寺薬師堂)
また、甲斐の国はみほとけの国であるという。山峡を行き交い行きにくい土地ということで、みほとけを保護している国ということだろうが、行き交うことで苦難を乗り越えみほとけに会いに行く国でもある。そして、大善寺薬師堂が三枝守国建立とあるので、いよいよみほとけの国とわれの間に淡きえにしがある予感がしてくる。
切る風の強さを徐々に上げてゆく今日が遠のくそんな気がする
是非はない渾身はあるうつせみの地上の人は影ながく曳く
秋明菊は天上の花人々の粒々辛苦の外に咲く白
是非はない渾身はあるうつせみの地上の人は影ながく曳く
秋明菊は天上の花人々の粒々辛苦の外に咲く白
みほとけの国である甲斐からはじまり、仏教的な思想がみられる歌が出てくる。切る風を上げるということは、すなわちスピードを上げていくということだ。そうした浮遊感は今日が遠のくと表現され、現世の執着から解放されたような感覚であろう。うつせみの人の長い影は現実存在の象徴である。上句は直接的な云いだが実存主義的な歌である。秋明菊はよくみられる花だが、濃い緑のなかに白い花が咲いていると浮き出てみえる。そうしたコントラストを天上の花と表現し、そこから仏教でいう蓮華の花のように詠っている。仏教と原風景と交錯したところに秋明菊があるのかもしれない。
啄木居士となりたる男 東京がさくらに染まる四月であった
もう少し生きておのれを省みる日々を持つべき男でもあった
もう少し生きておのれを省みる日々を持つべき男でもあった
石川啄木についての歌も多く収められている。啄木は明治の終わりとともに亡くなった。大正を知らない啄木は、大正のさくらを見ずに逝ったことになる。啄木は金田一京助に借金をして遊郭に遊んだ話は有名であるが、筆者はそんな啄木をつい生暖かく見守るように読んでしまう。三枝も偲びつつ啄木の若死にを惜しんでいる。
本歌集は「平成じぶん歌」の連作が収録されていることや、年代に区切って編集されていることから、平成で自身がどのように詠ってきたかを意識した歌集だと思う。あとがきに「〈平らかに成る〉という願いをこめた平成という時代は多くの人々の懸命と真摯にもかかわらず、災害と劣化する政治の時代として終わろうとしている。そうした困難がこの歌集には遠く近く反映している。」とあるが、東日本大震災や沖縄の歌も本歌集に収められている。平成から令和になっても未だに解決しない問題も歌によって提起されている。啄木に焦点が当たるときは「時代閉塞の現状」とどこかかぶるところが現代にあるということだろう。甲斐という原点に立ち帰りつつ、三枝から読者に現状をどう考えるか問題提起される読後感があった歌集だ。
本歌集は「平成じぶん歌」の連作が収録されていることや、年代に区切って編集されていることから、平成で自身がどのように詠ってきたかを意識した歌集だと思う。あとがきに「〈平らかに成る〉という願いをこめた平成という時代は多くの人々の懸命と真摯にもかかわらず、災害と劣化する政治の時代として終わろうとしている。そうした困難がこの歌集には遠く近く反映している。」とあるが、東日本大震災や沖縄の歌も本歌集に収められている。平成から令和になっても未だに解決しない問題も歌によって提起されている。啄木に焦点が当たるときは「時代閉塞の現状」とどこかかぶるところが現代にあるということだろう。甲斐という原点に立ち帰りつつ、三枝から読者に現状をどう考えるか問題提起される読後感があった歌集だ。