gekoの会は同人誌も発行しているが、こつこつとネプリをやるところにgekoらしさがあるような気がする。発足とともにそれぞれのメンバーの歌歴も蓄積し、活躍の場が広がっていっているというのも、内部にいつつ観察をする楽しみがある。もちろん私は差し置いて。本文はそんな「geko」(vol.11/二〇一九・十一・二十四発行)の歌を読みつつ、そこからgekoとは何か示唆的なものがあるか模索していきたい。
差別心打ち消しがたく小籠包割れば溢れて来つ肉汁は 永山凌平「枸杞の実」
永山作品は台湾の旅行詠で一連つくられている。〈テーブルの下にて君はサンダルを脱ぎをり青い爪色をして〉や〈枸杞の実を匙ですくへり釣り合はぬ愛せし記憶と愛されし記憶〉など静かに相聞の気配が流れる連作だ。また、台湾の温暖な気候、素朴な雰囲気と、枸杞の実といった東洋的なモチーフが連作の雰囲気をつくっている。引用した小籠包の歌は差別心というより、海外への心理的な壁のようなものだろう。それを自覚しつつでも、小籠包には肉汁が溢れてきて、われは空腹感と、止めどなく流れる肉汁あるいは自らの感情に見とれてしまっている。また、小籠包は自らの心理そのもので、スプーンで切れ目をいれると、旅行で意識下のもやもやしたものが溢れてきたと読んでいいかもしれない。
電車には捕食者はなく広告の等間隔の称賛の声 山川創「無動物」
山川作品は社会へ批評的な視点をむけて、不条理さと、ときに皮肉を含んだ批評性、そのなかで人間的なものを模索する姿勢がある。引用歌は下句の等間隔に並ぶ広告に目がいく。〈等間隔に〉ではなく〈等間隔の〉ということで、位置関係だけではなく、称賛の声が均質化されていることに対する批評がある。電車の中には脅威はないが、同質化するように調整された環境であるということだが、その同質化も低水準に調整なされているのだろうと想像が及ぶ。そこに山川の危機感がある。ここで終わることなく、〈家にまともな靴下が二足しかない温暖化に抵抗したい〉という歌もあり、上句のユーモアで、温暖化に抵抗したいと物申すわれがいる。山川も筆者も気候変動に対する危機感が共通理解になりつつある世代だが、実際に産・官レベルでは全く対策が進んでいないのは国際会議の報道をみてもわかる。上句のようななんとも情けない感じがまさに、世の中の気候変動に対する認識なのだ。
飛び出したランナーひとり やがて空を飛ぶ恐竜の脚が地を蹴る 貝澤駿一「On Your Mark」
貝澤作品は恐竜と少年がオーバーラップしながら編まれている。恐竜は凶暴性ではなく、進化の可能性や、生命感の象徴として登場する。また、貝澤からみると少年はかつての自分を見ているようで、鳥と恐竜の関係のようだ。引用歌はまえに〈鳥になるまえ恐竜はぎこちなく大地を蹴っていた 飛び出した〉とあり、引用歌と関連している。恐竜が飛び出す動きは力はあるが、飛ぶにはぎこちないというもので、絶妙に少年のメタファーになっている。また、全体を読むと陸上競技の歌でもあるようだ。大勢で走るさまがダーウィンを彷彿とさせる。
バスケットコートで男はシュートせずドリブル続けて大地を鳴らす 丸地卓也「しなしなと夜」
拙歌はシュートをしないというところに閉塞感がみられるが、一方で大地鳴らすというところにプリミティブな力がある。ドリブルの音のみがバスケットコートに響き、男はドリブルの練習をしているのか、それにわれは何を見出しているかを考えさせられる。〈ひょっとこの面をはずしてやれやれと短きニュースを見る雨の夜〉という歌もあり、社会情勢からも作歌において大きく影響を受けている。ひょっとこの面というのが、剽軽な顔とペシミズムな雰囲気と相合わさってシュールだ。
それぞれ連作でライトモチーフが定まったうえで編まれており、文体も各々の指向がみられる。結社を超えたgekoはそれぞれバラバラの環境で作歌をしており、年に数回ネプリや同人誌で顔を合わせる程度なのだが、共通項を強いてあげるなら愚直なところだろう。歌の性質においては特に共通項があるとは思えないが、次や次の次のネプリや同人誌ではもう少し語れることがあるかもしれない。また、geko以外の方からはいやいや結構gekoはgekoなりの色があるよという意見もあるかもしれない。今後も参加しつつ定点観察を続けていきたい。