『サリンジャーは死んでしまった』に続く第三歌集で待ちに待ったひとも多かっただろう。筆者にとっては同世代のトップランナーであり頼もしい存在だ。歌集を読み進めると繊細な感性や言語感覚ではまとめきれない、詩的境地があるように感じた。
日輪に展開図あると思いつつ段ボール潰し午後に入りゆく
航空機消息不明となりし夏タカアシガニの群《むれ》空を這う
湖のひかりを浴びた両腕で夜の宅配便を受け取る
縄文期ならばもうすぐ死ぬ齢 レシートを手にまるめて歩く
一首目は標題歌だ。比較的前半にある歌で、日常的な景から詩的飛躍を行っている歌である。下句から日輪に飛ぶのだが、〈日輪に〉からはじまるため、段ボールという具体的な景に至る前に日輪が展開されて、ダリやエッシャーを思わせる詩性を醸し出している。航空機の歌は航空機の通信が途絶えて、乗客ごと失踪した事件からきている。痛ましさとともに、不可解な気味悪さもある。それを空を這うタカアシガニの群で表現している。またタカアシガニは海底の屍を食べることからよりいっそう不気味な感じがする。内容的にエッジの効いた歌を引用したのだが、韻律が整っており、抒情も詩的ながら抑制的でもある。表現したい芸術性と小島の文体がお互い影響しながらできた作品と読みたい。湖の歌は連作のなかで湖に行った歌があり、モチーフとしてではなく、リアリティのある上句である。そんな湖の余韻の残ってる腕で、宅配便という日常的なものを受けとることで、いわゆる祭のあとのようなさびしさがみられる。さて、飛躍に関して小島は時間や距離を長くとっていることがわかる。たとえば段ボールから日輪、航空機から空のタカアシガニ、そしてレシートから縄文時代と、距離は空や宇宙、時間は縄文時代とめいいっぱい振り幅をとっている。詩的空間は広がるが現実感が希薄な印象を抱く。
雪を踏むローファーの脚後から見ている自分を椿と気づく
筆洗いバケツの中の濁り水 盗まれたように時間が過ぎた
体内に三十二個の夏があり十七個目がときおり光る
この日々もいつか幻まぼろしは忘れてしまう花火ではない
その印象に答えるような歌も収められている。雪を踏むの歌では椿は詩的なモチーフであり、高校生の後ろ姿を見ている自分が詩になってしまったとも読める。高校生でもないし、大人でもなく椿であるというところに隔世の感のようなものも感じる。先に抒情が抑制的と述べたが、同時に全体的が薄雲っているような微かにメランコリックな歌が多い。筆洗いバケツの歌では、道具だて的に小学校の場面を思い浮かべるが、筆洗いバケツといった楽しげなもののなかに濁り水がある。渦巻く濁り水を不気味に思うのは小学生の〈われ〉ではなく、回想している〈われ〉である。下句から『モモ』の時間泥棒も加味されているのかもしれないが、渦巻く濁り水に時間が吸い込まれるような感覚は独特な感覚である。幼いころに暗いものを没頭して見つめる経験が誰しもあった、かもしれずその感覚を歌にしている。体内にの歌はいうなれば、いま三十代の若者が九十年代のヒットソングを聴くような抒情がある。光るのはあくまで思い出であり、ひと夏の花火のように消えていったものである。そして、この日々でさえ忘れてしまうまぼろしだという。そして、花火ではないと詠っているが、花火のように美しいわけではないということである。体内にの歌よりも思い出に対して期待しておらず、メランコリックな抒情の根底にある無常感がこの歌にはある。
この歌集のそこにあるメランコリーは何だろうか。時代や個人史もしくは気分的なもの特定はできないが、雪を踏むの歌のように、到達してしまったある詩的境地から感じる孤独感や無常感があるように感じた。今後どう展開されるのか気になる歌集である。
日輪に展開図あると思いつつ段ボール潰し午後に入りゆく
航空機消息不明となりし夏タカアシガニの群《むれ》空を這う
湖のひかりを浴びた両腕で夜の宅配便を受け取る
縄文期ならばもうすぐ死ぬ齢 レシートを手にまるめて歩く
一首目は標題歌だ。比較的前半にある歌で、日常的な景から詩的飛躍を行っている歌である。下句から日輪に飛ぶのだが、〈日輪に〉からはじまるため、段ボールという具体的な景に至る前に日輪が展開されて、ダリやエッシャーを思わせる詩性を醸し出している。航空機の歌は航空機の通信が途絶えて、乗客ごと失踪した事件からきている。痛ましさとともに、不可解な気味悪さもある。それを空を這うタカアシガニの群で表現している。またタカアシガニは海底の屍を食べることからよりいっそう不気味な感じがする。内容的にエッジの効いた歌を引用したのだが、韻律が整っており、抒情も詩的ながら抑制的でもある。表現したい芸術性と小島の文体がお互い影響しながらできた作品と読みたい。湖の歌は連作のなかで湖に行った歌があり、モチーフとしてではなく、リアリティのある上句である。そんな湖の余韻の残ってる腕で、宅配便という日常的なものを受けとることで、いわゆる祭のあとのようなさびしさがみられる。さて、飛躍に関して小島は時間や距離を長くとっていることがわかる。たとえば段ボールから日輪、航空機から空のタカアシガニ、そしてレシートから縄文時代と、距離は空や宇宙、時間は縄文時代とめいいっぱい振り幅をとっている。詩的空間は広がるが現実感が希薄な印象を抱く。
雪を踏むローファーの脚後から見ている自分を椿と気づく
筆洗いバケツの中の濁り水 盗まれたように時間が過ぎた
体内に三十二個の夏があり十七個目がときおり光る
この日々もいつか幻まぼろしは忘れてしまう花火ではない
その印象に答えるような歌も収められている。雪を踏むの歌では椿は詩的なモチーフであり、高校生の後ろ姿を見ている自分が詩になってしまったとも読める。高校生でもないし、大人でもなく椿であるというところに隔世の感のようなものも感じる。先に抒情が抑制的と述べたが、同時に全体的が薄雲っているような微かにメランコリックな歌が多い。筆洗いバケツの歌では、道具だて的に小学校の場面を思い浮かべるが、筆洗いバケツといった楽しげなもののなかに濁り水がある。渦巻く濁り水を不気味に思うのは小学生の〈われ〉ではなく、回想している〈われ〉である。下句から『モモ』の時間泥棒も加味されているのかもしれないが、渦巻く濁り水に時間が吸い込まれるような感覚は独特な感覚である。幼いころに暗いものを没頭して見つめる経験が誰しもあった、かもしれずその感覚を歌にしている。体内にの歌はいうなれば、いま三十代の若者が九十年代のヒットソングを聴くような抒情がある。光るのはあくまで思い出であり、ひと夏の花火のように消えていったものである。そして、この日々でさえ忘れてしまうまぼろしだという。そして、花火ではないと詠っているが、花火のように美しいわけではないということである。体内にの歌よりも思い出に対して期待しておらず、メランコリックな抒情の根底にある無常感がこの歌にはある。
この歌集のそこにあるメランコリーは何だろうか。時代や個人史もしくは気分的なもの特定はできないが、雪を踏むの歌のように、到達してしまったある詩的境地から感じる孤独感や無常感があるように感じた。今後どう展開されるのか気になる歌集である。