知覚が捻れる空穂

 卓上の書《ふみ》を照らせる深夜《しんや》の燈《ひ》澄み入るひかり音立てつべし 窪田空穂『丘陵地』


 感覚器(受容器)は皮膚や目、さらにいうとそれぞれの神経のことで、適刺激はその感覚器に適した刺激のことである。平たくいうと目には光が、耳には音が適した刺激なので、適刺激ということになる。なお、皮膚には神経が複数あるので、皮膚としてみたときは適刺激も複数あるし、瞼を閉じて眼球を押すと光を感じるという現象がある(試さないほうがいいです)ので目も厳密にいうと適刺激は複数ある。また赤外線といった可視光線ではない光や、超音波のような聞き取れない音域もある。適刺激という概念はそれぞれの生体の知覚能力にも依存する。

 なぜ知覚の話をしたかというと、引用歌の下句は「ひかり」、「音立てつべし」と刺激は捻れているからである。深夜の燈の光は視覚で、音が立てていることを知覚するのは聴覚なので知覚的にあり得ない下句なのである。感覚器と適刺激をずらして詩的に工夫しているというのは歌評でありがちだが、知覚心理学の常識を踏まえると、人間の生理的限界を超えた大きな飛躍ということになる。さて、歌全体を見ていきたい。卓上にあるのは書物、深夜の燈が届く範囲の世界が詠われている。俗臭や自らの老いた肉体からも解放されているような静謐な空間があり、その空間を澄み入るひかりと表現している。その静謐さや静寂さがあるのに、音がたっているようだと詠う。ひかりが立てる音は想像するしかないが、深夜の燈から発せられるひかりなので大きな音ではないだろう。空穂の時代は電球なので音も出ないが、あるとすれば漏電のようなジーとした音で、いずれにせよしみじみとした音だろう。全くの無音だと却って雑念が生じたり、自分の心音が気になったりするので、何かしら音があったほうが、俗臭や自らの老いた肉体を忘却するのに都合がいい。

 社会的、肉体的軛から解き放たれるところまで読みが行き着いたところで、先述の感覚器と適刺激の捻れの話と繋がる。肉体的な軛がなければ捻れは捻れではなくなるのである。引用歌の場合は光刺激の感覚器は耳であり、歌の世界においては適切なのである。なぜなら生体に囚われた知覚的な原理原則から解離することで、歌意のごとき抒情が担保できるからである。詩的飛躍で片付けずに細かく読むと知覚心理学的、あるいは生理学的に処理できるから面白い。