受け継がれる老いの歌─近世から現代─(「かりん」(二〇二二・八)所収)

  昨今、超高齢社会という言葉は市民権を得て、老いの歌は目新しいものではなくなっている。老いを研究する分野で老年学があり、『デジタル大辞泉』によると医学・生物学・心理学・社会学なども面から老年期における諸問題を総合的に研究する学問と解説されている。老年学に関する専門書でも医学・社会科学的な側面の章立てになっている。昨今の老年学は政治家や医療従事者に知見を与える一方で市井がどのように生きるかは二の次になっている。老いの歌はそうした観点からも老年学ひいては社会全体に示唆を与え続けている。

菓子屋にて求めし萩の餅食うべては生ける先祖の我のよろこぶ 窪田空穂『去年の雪』

卓上の(ふみ)を照らせる深夜(しんや)()澄み入るひかり音立てつべし 『丘陵地』

最終の息する時まで生きむかな生きたしと人は思ふべきなり

 臼井和恵『最終の息する時まで 窪田空穂、食育と老い方モデル』(二〇二〇・三/河出書房新社)は空穂の作品を通じて老い方を論じた、文学と老年学を結び付けるような著書であり、応用分野に偏った老年学観を払拭し人間回帰させる期待がもてる。一首目は、老年であるだけではなく、自らを脈々と続く一族のなかで先祖の側に置く把握が、一般的な老年の認識を超越しており魅力である。臼井は彼岸に甘味を喜ぶ場面に着目し好意を素直に受け取る人柄を軸に鑑賞している。二首目について生活を愛しむ視点、清貧の豊かさを臼井は指摘している。空穂は山岳詠や天と地を詠うような把握が大きい歌と、微視的な歌の二つがあり、微視的な歌は臼井のいうように清貧に徹するところがある。健康で身の丈にあった生活の獲得がよい老い方だとすれば、清貧であることは必要である。三首目について臼井は、空穂には「与えられた生命をいっぱいに生きることが人間の本性である」という生きる上での信念があったと指摘する。また、「この歌そのものが、老い方のモデルを語っていると言え、後に続くわたくしたちを励ましてくれるように思われる。」と述べている。老年学におけるサクセス・フルエイジングは心身の健康や社会参加が良いという一元論的なところがあるが、空穂の歌は社会が要請する正しさ、テーゼとは異なる視点がある。これは短歌をはじめとする文芸の視点である。近代歌人のなかで八十九歳まで生き、老いを数多く詠ってきた空穂から老い方を学び、普段短歌に接しない読者層にも老い方モデルというかたちで紹介したのは慧眼であった。

尊きかも蘆庵直好(ろあんなほよし)六十過ぎ七十に入りて歌いよよ澄めり 窪田空穂『青朽葉』

(おい)ぬれば弓をもとらぬ左手のやといふばかりいたむくるしさ 小沢蘆庵

波のへをこぎくとおもへば磯ぎはに近くなるらし松のと高し

今更に世をば千代とも思はねどしげるうれしき窓のくれ竹 熊谷直好

天も地も真青き五月ふかみゆく今日のこころよ(かげ)りのあるな 窪田空穂『去年の雪』

 空穂もまた文芸や国文学から生き方を模索した歌人であった。一首目は七八年生きた小沢蘆庵と、八十年生きた熊谷直好の二人の近世歌人を挙げ、老いてますます歌が澄んでいったと詠っている。蘆庵、直好の老年の歌をみてみよう。なお、蘆庵の歌は高木市之助、久松潜一校注『日本古典文学大系九十三 近世和歌集』(一九八一・十一/岩波書店)、直好は國文學大講座刊行會『國文學大講座第十七 近世和歌史』(一九三五・二/日本文学社)から引用した。二首目は弓手・矢、左手・嫌が掛詞的に対応している。かつての猛者が左手の痛みを弓矢に掛けて自己戯画化している。老いをユーモラスに詠むことは蘆庵の時代からなされていたのである。三首目は辞世の歌で、この歌を詠んだ翌日に蘆庵は没した。生命が波打ちながら細々と彼岸に向かう様を景色に託している。松風は人生の愛別離苦から解放されたのちの静けさを表している。四首目、くれ竹は直好の弟子の比喩とも読める。直好は青く茂るくれ竹ほど若くはない。自らの生も、見通せる時代も千代とはいえないが、眼前にあるくれ竹は確かに育っているという充足感がある。直好は「すべて何も知らぬ以前の人にならざれば、眞の無思慮無分別の歌は出て來ぬ」と述べ自らの生に根差した歌を良しとした。近世和歌は、町人文化の隆盛とともに生活実感を詠うようになった時代であり、自らの生、つまり老いは盛んに詠われていた。五首目、空穂の天と地という大きな把握や、五月の青々とした空気感、下句の生きる力は蘆庵、直好の影響があるようにも思える。近世歌人の衒いのないところも空穂の好むところであり、一首目に立ち返ると〈澄む〉が肝心なのだ。

松の露うけて墨する雲の(ほら)硯といふも山の(いは)くづ橘曙覧

〈澄む〉についてもう少し考えていきたい。空穂は『江戸時代名歌選釋』(一九二九・十一/理想社)で曙覧の歌を仙人の気分を詠んだとし、「出来るだけ人間の臭ひを棄てて、自然そのものとなるのが仙人です。(中略)豪放な詠み方をしてゐるらしく見えて、その實、細心な技巧を用ゐてゐます。それと見せないのは、老熟と冴えとです。」と評釈している。自然との一体感や、老熟と冴えという着目は先述の〈澄む〉に共通する。空穂は『西行景樹守部』(一九一七・一/白日社)で香川景樹の「歌は理るものにあらず、調ぶるものなり」という歌論を引用し気分という言葉を用いた。「主観に即しての客観」のある歌が調ぶる歌であり、気分のある歌であると述べている。篠弘は「窪田空穂の歌論 その創成されるプロセス」(一九六八・三/国文学研究)で空穂の歌論は景樹の影響を大正三、四年から数年の間に受け、文壇における心境小説の世界に対応した作歌活動ができたと述べている。時期としては『濁れる川』以降の作品である。近世和歌と空穂の作品を比較して読んでいくと、心境小説に対応した気分の歌の延長線上に老境から生まれる〈澄んだ〉歌があるように考えられる。臼井が空穂から老い方モデルを見出したように、空穂自身も評釈を通じて先人から老境の〈澄み〉を見出したのだ。

 空穂の弟子で昭和平成を生きた岩田正の歌にも着目したい。空穂と岩田の老いの歌については、米川千嘉子「空穂の知らなかった老い─窪田空穂と岩田正─の晩年の歌」(二〇二一・十一/かりん)に詳しい。米川は〈さても老いの風船つきはおもしろい足で蹴る椅子よりおつこちる 岩田正『柿生坂』〉等の歌を引用し「さまざまな生の実相と人生の渦の中に作者の心は十分動揺し」、「老人たちのいのちの時間は生暖かく溶け合っている」と評し、尊厳に満ちた空穂の個の時間と比較している。また、〈秋は帰路雲の茜を身に浴びてつれだち歩む去りし友らと 岩田正『柿生坂』〉と〈笑顔(えがほ)して世に歩み寄るよき人をこころ(なご)みて遠く見迎ふ 窪田空穂『去年の雪』〉の、生死を超えた人懐かしさという共通点を指摘している。これらの歌は直好のいう無思慮無分別の歌であり、〈澄んだ〉歌といえる。

庭隈のたたきに出来し水たまり空や樹うつし俺の顔うつす 岩田正『柿生坂』

米・パン屑豊富な餌を庭に撒きわれも雀も充ち足らふらし


 一首目のような何気ない日常生活においても水たまりというもう一つの世界で空、樹、自分が一体になっており、どこか曙覧の仙人の風がある。また二首目のような雀、鯉、鴨に餌を与える歌を岩田は多く詠っており、自然や自らの生に根差した〈澄み〉があるゆえに、何気ない日常風景が歌として成立している。近世歌人、空穂、岩田と歌や論を通じて老境の〈澄み〉は受け継がれていると考えられる。老いることは誰しもが初めてだが、ゆえに先人の背をみるのだろう。短い詩型のなかで老いが語り継がれ豊かになっていき、バトンは回されるのかもしれない。

「かりん」(二〇二二・八)所収