岩田正の〈場所〉の詩学(「かりん」(二〇二三・三)所収)

  今の武蔵野は林である。林はじつに今の武蔵野の特色といってもよい。すなわち木はおもにならたぐいで冬はことごとく落葉し(略)元来日本人はこれまで楢の類いの落葉林の美をあまり知らなかったようである。(略)歌にも楢林の奥で時雨を聞くというようなことは見あたらない。

  国木田独歩『武蔵野』

 近代以降、ウィリアム・ワーズワースなどの自然を賛美したロマン派文学の影響や、自然科学の発展により、日本でも独歩がありふれた武蔵野の林に抒情するように私的な領域で自然または〈場所〉が文学で描かれるようになった。短歌における〈場所〉においても歌ことばである歌枕にとどまらず、私的領域を拡大していく。和嶋勝利は「歌壇」(二〇二二・九)の特集「極私的歌枕──街の「場」を詠む」で、〈金閣寺炎上よりも呆気なく東京スカイツリー炎上はある 藤原龍一郎『202X』〉から、詠みこまれた地名について、高度経済成長期の東京下町に住むわれと都心の心理的な距離感を読み取るなどして、ひとりの歌人が繰り返し詠む〈場所〉について考察している。そのうえで極私的歌枕も、歌ことばである歌枕同様に共同想像力を喚起するものであり、〈場所〉は短歌において重要な要素であると結論づけている。

水平に肩()めてゆく鴨みればどぶ川清き流れと見ゆる 岩田正『郷心譜』

麻生川鴨の飛来に見飽きたる人ら川見ず凍てし岸ゆく

コンビニ捨て騒音捨てればわが柿生川に鴨群るレトロの昭和  『鴨鳴けり』

 岩田も特定の〈場所〉を繰り返し詠んだ歌人である。そのひとつに生活圏を流れる麻生川がある。一首目は護岸工事をした麻生川をどぶ川と呼びつつも、悠々と泳ぐ鴨もおりどこか愛着をもっている。二首目では人々から興味を向けられなくなった鴨と、凍てついた川岸という寒々しい道を歩く人々を眺めるわれがいる。岩田は麻生川と鴨、人の織り成す世界に関心を抱き続け、〈川の陽を浴びて帰つた寒の暮れ芦・魚・鴨ら胸にそよげり 『背後の川』〉と生態系をまるごと一首に詠む視点ももっていた。岩田は川を詠い続けることで次第に〈場所〉を内面化していったようである。三首目は現在の柿生川(麻生川)を眺めながら、現在の雑多な景を差し引き、岩田の記憶の中のかつての麻生川を再生する。繰り返し詠み続けることで麻生川は岩田の極私的歌枕になり、共同想像力が醸成されていった。歌枕、極私的歌枕の他に〈場所〉について、環境批評の視点で環境詩学がある。小谷一明ら編著『文学から環境を考える エコクリティシズムガイドブック』(二〇一四・十一/勉誠出版)によると環境詩学とはecoはギリシャ語のoikos(住みか)に、poeticspoiesis(作ること)に由来することから、「詩がいかなる点で住みかを作ることになりうるかを問う」ことであると解説されている。環境詩学の視点からみると岩田が麻生川を詠い続けることは、麻生川を極私的歌枕に位置づけ、そこに歌人として住み続けることでもあった。

柿生坂の中途にふつと足を停むいまだ人生半ばと思ふ 『郷心譜』

杖曳きてのぼれるがあり犬を追ふ少女ありああ坂の人生

友待つと思ひてくだり妻待つと思ひてのぼるわが柿生坂 『いつも坂』

コンクリにしみねばつもり腐れゆく落葉をかなしみ柿生坂踏む 『背後の川』

変哲もなき柿生坂夏は夏の思ひにのぼる家近き坂 『柿生坂』

 一首目で詠われているように岩田は柿生にある坂を柿生坂と名付け、麻生川と同じく繰り返し詠っている。柿生坂も極私的歌枕といえる。二首目は柿生坂を登るわれと、周囲の情景から坂は人生の暗喩のようなものであると詠っている。三首目は歌会の行き帰りを彷彿とさせる歌である。歌友多き歌人として柿生坂とどのように関わっていたかが伝わってくる。四首目は前に〈地に土にかへさむ通りのコンクリに積りし落葉抱へて運ぶ〉という歌があり、落葉に生命を見出す純粋な自然への愛着がみられる。五首目になると、柿生坂は先述の麻生川同様に〈場所〉の内面化がみられる。柿生坂は特別な存在ではなく、岩田の生の一部となっている。年齢を重ねて坂を登ることが容易ではないなかで、〈地を這ひて生くるといふに気づきたり老ゆれば自然に地を這ひて生く〉という老いと坂の関係を肯定する歌もあり、柿生坂も環境詩学でいう住みかになっている。麻生川は固有名詞だが、柿生坂は岩田がつけた地名である。柿生坂にはより自らの人生を重ねる歌が多く、岩田にとって特別な〈場所〉、住みかなのである。

飢うる声街にあふるれど大方のビラは映画のポスターならずや 『靴音』

百貨店くらむばかりの明るさの中なる売子の暗き顔かな

 岩田の初期の作品は戦後のイデオロギーの渦のなかで詠われた。一首目は戦後の貧富の差をポスターの鮮やかさが際立たせる歌。二首目は百貨店の明るさのなかでさえ、暗い生活者である売子がいる。街や百貨店はそこに生きる人々と対立し、時代性や社会問題がはらんでおり、人が住みえる〈場所〉にはならない。ゲーリー・スナイダーは生田省吾編『「場所」の詩学』(二〇〇八・三/藤原書店)で〈場所〉とアイデンティティの関係について対談で日本人の名字は場所に関連しており、畑の真ん中である中畑や山の裾である山下など場所を中心としたアイデンティティを形成しており、それは古くから確立された体験だと指摘している。近代以降は文学で〈場所〉が主題になっていたにも関わらず、社会では〈場所〉はアイデンティティの形成に鑑みられず、イデオロギーによりアイデンティティの確立がなされていた。したがって、都市には〈場所〉をもたない人も存在し得た。岩田は年譜によると世田谷区に生まれ、早稲田大学、東京都立工芸高校に勤務と都市生活者であった。一九七五年以降に川崎市に居を移し、麻生川、柿生坂を詠うことでスナイダーのいう〈場所〉を獲得し、歌を住みかと成したと考えられる。

みちのくの春のことぶれ鬼たちの哄笑根雪ゆるがしきたる 『和韻』

乗り降りの人らを縫ひて餌あさる鳩は土着の相貌をもつ  『視野よぎる』

 スナイダーが述べた〈場所〉という概念は、土俗論を展開した岩田からすると土俗あるいは風土ともいえる。一首目は鬼剣舞の活気や、姿はみえないが存在感のある鬼そのものを予感する歌。古来より自然と鬼が一体となってみちのくの風土を形成していたことを示唆する。二首目は柿生駅を想起するといいだろう。卑近な鳩を詠んでいるが、鳩でさえ〈場所〉によりアイデンティティを形成しており土着の相貌をもつ。また、岩田は『歌と生 この源への問い』(一九八三・六)で民俗を見極めることは「いちいちの仏像や行事や山人と対面し会話を交わし、細部にわたるきき書きをすること」ではなく、「(略)本質に迫ることである。極端に言えば、みずからがみずからのうちに、ひとつの世界を創ることであろう。」と述べており土俗論と環境詩学の共通項が見出せる。

とろとろと眠りはきたる午後一時ケアセンターはいのちの眠り 『柿生坂』

『柿生坂』ではケアセンターが頻回に詠まれている。ケアセンターを極私的歌枕あるいは〈場所〉と捉えなおすと、そこに居るわれや高齢者の純粋性やヒューマンな要素は、山川草木と同じく天然のまま存在するようにもみてとれる。自然と人間社会は長らく対立してきたが、人間も自然の一部である。岩田の〈場所〉の詩学は、土俗論と一体を成しながら、近代の二項対立を脱却して、自然と人間が純粋性というスピリチュアルな部分で共鳴する“自然(じねん)”の詩学といえよう。


「かりん」(二〇二三・三)所収