憧れの陰翳 「かりん」(二〇一九・五)所収

  「憧れは理解から最も遠い感情だよ」これは少年漫画『BLEACH』二十巻「end of hypnosis」(久保帯人・二〇〇五/集英社)の登場人物である藍染惣右介が護廷十三隊という死神の組織を裏切り、黒幕であることを明かした際に、部下の雛森桃に言い放った言葉だ。雛森は藍染に盲目的に憧れを抱いており、茫然自失するのだが、なんとも逆説的な台詞である。この台詞は当時の読者層の共感を呼び、普段の会話で使ったことのある若者は少なくないはずだ。

 

憧れは理解からもつとも遠い感情 葉にふる雨が花ぬらすやうに分かるよ 藪内亮輔『海蛇と珊瑚』

わたつみに雪降りしきるくらがりをきみは見ている/かつてこの街に来たれり/青年と呼ぶには甘く、/少年と呼ぶには鈍きその声を誰が思うか(略)慟哭 きみが憧れてそして恐れた物語(略)恐れることは憧れることと同じと気付くまで/漂い続けているしゃぼん玉 山田航『水に沈む羊』

 

 一首目は藍染の台詞の本歌取りになっている。葉に降る雨が花をぬらすというのは映像的で、美しくも自明の理というところに、憧れという感情や対象が近いようで最も遠いところにある絶望があらわされている。巻末の解説で永田和宏が藪内の作品についてやさしさと激しさが屹立しせめぎあっていると評しているが、憧れと無理解の二律背反もまたそうした性質によるものだろう。また、山田の「啄木遠景」という長歌では、啄木に問いかけるようにして北海道を訪れた心情を洞察していく歌である。〈慟哭 きみが憧れてそして恐れた物語〉と、啄木は故郷である渋谷村から都へ続く道に憧れつつ恐れを抱き、第三の道である北海道に住んだと解釈し、現代的な視点から同情を寄せている。この一節も藍染や藪内の憧れと共通項がある。憧れとは本来ポジティブな意味を持つ言葉だが、現代においてはときに理解から最も遠いといわれ、ときに恐れることと同義といわれるような複雑な言葉になってしまった。

 

酒で充たし肴で充たしもう誰も入つて来るなわがふところに 山下翔『温泉』

わたくしがピアノなら低く鳴るだろう誰が弾いても(あなたの手でも) 岡崎裕美子『わたくしが樹木であれば』

昼休みエア同僚と食べているクッピーラムネ大粒サイズ 山川藍『いらっしゃい』

 

 憧れの対象が理解から最も遠いというだけではなく、身近な他者であってもときに理解から遠い存在になりうる。山下の歌は孤独に酒を飲むという抒情的な歌で、ヤマアラシのジレンマ特有の虚しさや悲しみが表現されている。岡崎の歌は不倫の歌が同歌集にあり、〈あなた〉以外でもわたくしの心が動くということなのだが、夫婦関係の不安定さが結句のダメ押しで際立つ。現代において藪内や山田の歌のように憧れは陰翳をもつ言葉になり、山下や岡崎の歌のように身近な他者さえ遠い存在になってしまった。近代の歌人で葛藤を多く詠んだ歌人といえば一番に石川啄木を想起するが、例えば〈友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来()て/妻(つま)としたしむ 『一握の砂』〉では〈友〉は啄木のなかで具体的に想定されており、下句で友をうらやむ気持ちや、一方で自分は社会的権威とは違う価値観を持っている矜持を読みとることができる。引用した現代の歌と、啄木の歌ではやはり、他者との関係性が異なっており、現代の歌のほうに不可解さ、不安定さがある。さらに、山川の歌において他者は〈エア同僚〉であり、存在すらしない。エア同僚という見せ消ち的な不在は、ユーモアのある面白い歌というだけではなく、その陰に潜む孤独感のようなものも感じさせるが、どのどちらかと断言できない難しさがある。

 

(ざらざらの面が裏です)感情を折り畳んでからミスを指摘す 辻聡之『あしたの孵化』

私のチャームポイントは私のものですレンゲにワンタン掬う 川口慈子『世界はこの体一つ分』

 

辻の歌は職場の先輩としての役割意識が感情を抑制させているというのだが、目に見えない裏面はざらざらしているというエスを見つめる冷静なまなざしがある。川口は、面接の場面を思い出したのだろうか、チャームポイントを聞かれたが、どこがチャームポイントなのかはっきり言えずに、ワンタンというふわふわしたものを掬ってしまう。辻のようにエスまで見てしまうほどの内面へのまなざしや、川口のようにチャームポイントを明示できず誤魔化してしまうということからも、自己意識のわかりにくさがみとめられる。

現代に生きにくさがあるとすれば、憧れや身近な他者、そして自己までもわかりにくいものであるという気づきにあるのではないか。そして本論でとりあげた歌人は、それぞれの生きにくさをレトリックやユーモアにより昇華し歌を成している。とかくに住みにくい人の世に歌は生まれ続けるのであろう。


「かりん」(二〇一九・五)所収