祈りにも似た視線 松村由利子歌集『光のアラベスク』歌集評 「かりん」(二〇一九・八)所収

  フランス装にアラベスク模様という装丁がとりわけ目を引き、手に馴染むような歌集だ。自室や喫茶店で読んでもいいのだが、外へ持ち出したくなる。

 

ジャン・ヴァルジャン五桁の囚人番号で呼ばれたあなた 日本も寒い

笛吹の笛の音がもう聞こえない(モスキート音?)暮れゆく世界

火星行き移民船発つ佳き朝にわが曾曾曾孫の歌う賛美歌

働かず紡がぬ百合を善しとする聖書あるいはシンギュラリティ

 

 一首目は前の歌に〈十二桁の数字届きて焼き印を捺されたように背中が痛む〉という歌があるためマイナンバー法への批判も込められていることがわかる。ジャン・ヴァルジャンはユゴーの小説『レ・ミゼラブル』の主人公で、一度は投獄されるがその後、献身的に生きていく男である。ジャン・ヴァルジャンは行いを改めても囚人番号は消えない。そうしたスティグマをマイナンバーに感じているのである。二首目は『ハーメルンの笛吹き』を題材にしている。この歌は「中世の闇」という連作に収められており、中世の不条理な史実・伝説を現在と結びつけて詠っている。笛吹男が一三〇人の子どもを連れ去ってしまうという怖い伝説だが、歌ではもはや笛の音が聞こえずに、モスキート音のような不気味な音が鳴っている。モスキート音は若者しか聞こえない音とされ、人口減少により若者が消えていってしまう終末を暗示している。三首目はSF作品の一場面のようだ。火星行きの宇宙船が移民船だという未来社会の描写や、曾曾曾孫の歌うのは未来からすれば古風な賛美歌であるというところで、曾曾曾孫を通じて松村の価値観もみえてくるという構図である。「かりん」(二〇一八・五)で鹿取未放は「背徳的と見える歌にある科学あるいは人間性と教義の鬩ぎ合い、分裂は確実に松村の歌を陰影深いものにしているといえるだろう。」と述べているが、この歌でも科学と教義が鮮やかな対比であつかわれている。四首目は賛美歌で「うるわしの白百合」があるようにキリスト教において百合はキリストの象徴として歌われることがある。シンギュラリティはAIが人類の知能を超える転換点で、かつてSFが描いていた世界である。そこでは人類は労働から解放されているのだが、キリスト教とつながるのは松村ならではである。科学の行く先を、宗教で描き出す歌であり、本歌集のなかでも特徴的な歌である。先に挙げた歌は全体的に日本の閉塞感や、現代を飛び越して未来を題材にしているなど、現代の社会状況を批評的視点で見つめている歌である。

 

手仕事は人を支える日常の針目正しく生きねばならぬ

小さい林檎小さい苺スーパーになくて小さい経済が好き

人がみな上手に死んでゆく秋は小豆ことこと炊きたくなりぬ

地に落ちたマンゴー子らと拾いおり誰かの余生みたいな夕べ

 

 一方で、松村が肯定的に詠う社会や人生とはどんなものだろうか。それは手触りのある生活や、素朴な人との関わりなのかもしれない。科学と信仰そしてジャーナリズムの視点のある歌が並ぶなかで、〈手仕事〉や、〈針目〉という実感の大切さを自身に念押しするように詠っている。また、小さい林檎や苺はスーパーに並ばず、物々交換される。そうした市場を介さない経済を好ましく思っている。そして、人の死に対して、〈小豆ことこと〉という生活に根ざした気分をもっている歌も印象に残る。南島での生活を感じさせる歌にマンゴーの歌があるが、地に落ち商品にはならないマンゴーを親しい者同士で食べるために拾うというところに注目したい。ゆっくりした時間を〈誰かの余生〉と表現しているところにも、南島での生活が境涯の域まで内面化している。こうした歌から複雑化するグローバリゼーションのなかで、ローカルの大切さを認識していることが示唆される。また、前歌集『耳ひとひら』では石垣島や沖縄を題材にした歌が多く収録されているが、本歌集ではそこでの生活で培った価値観や人生観などについても深められているところに特長がある。

 

足指をひらいてパーができぬ頃パンプスはわが戦友なりき

 

 松村の歌にはパンプスがよく登場する。日本の職場で女性がパンプスの着用を強制されるような実態に対して〈#KuToo〉の抗議運動があるなど、パンプスは日本のジェンダーを象徴しているといえよう。以前の歌集からみていくと、〈パンプスもスーツも処分する五月わが総身に新緑は満つ 『大女伝説』〉ではパンプスを処分することで、ようやく自らが自然と一体となれたという人間性の回復を詠っている。〈パンプスはもう黴だらけ六月はどこへ行くにもサンダルとなる 『耳ふたひら』〉ではパンプスは石垣島にはもう馴染まないものになっており、サンダルを愛用するという南島感を逆説的に醸し出す題材になっている。引用歌では、上句はパンプスを履いて働いていたころの不自由な立場を暗示しているが、下句でパンプスは戦友だったと詠っている。歩きにくい靴ではあるが、ともに男社会のなかで戦ってきた靴がパンプスなのであろう。パンプスという題材が歌の制作時期によって、詠われ方が異なるのも着目すべき点で、本歌集ではパンプスとわれの関係を総括しているようである。

 

春・卵子・母乳・わたくし 売買の許されぬもの抜き出しなさい

プラスチックだらけの日々は層を成しなだれ込むなり亀の胃壁へ

女性が社会において消費されてきたという認識は日本に定着してきている。上句で〈春・卵子……〉と列挙されているが、どれも国際的な人権問題だ。ジャーナリスティックな歌なのだが、春や卵(卵子)、乳(母乳)などは語感がやわらかな言葉であり、読み進めていくうちに歌に込められている問題提起に気付くとハッとする。また環境問題においてもマイクロプラスチックや、海洋生物がプラスチックを食べてしまい死に至る問題が議論されるようになった。プラスチックだらけの日々というのが皮肉で、環境を破壊するプラスチックに囲まれている日常は、プラスチック同様に軽くてもろいものであるという暗喩になっている。

 

甘やかに雨がわたしを濡らすとき森のどこかで鹿が目覚める

わが鹿を夜に放たば一陣の風よりも疾()くあなたを目指す

やがて土に還ることわが最良の仕事だろうか草を引きつつ

 

心象世界の歌も独自の文学性がある。あとがきに「光と闇、きらめく水面、鬱蒼とした森」のモチーフが繰り返しあらわれると書かれているが、そうした歌が全体の雰囲気を形づくっているのである。社会詠は硬質になりがちだが、鹿のような清らかさや、鹿があなたを目指すという瑞々しい恋心の歌が大きな振れ幅になっており、草を引きつつという小説の一場面のような歌からのぞかせる本音のようなところに、文学を愛する純粋な〈われ〉が出てくるのである。

 ジャーナリズムの場にいる松村の歌は、常に先端の問題を掬いとっている。ときに批評的にみつめ、ときにヒューマニズムや宗教・文学といった人文学的視点から光を当てて詩にしている。一方で、瑞々しい抒情的は、知性の殻の奥にある柔らかな自己をあらわしている。あとがきに師である岩田正の「よく見る。そして、もっとよく見る」という言葉が引用されているが、社会の先端を、文化的背景をもって見ることと、自身の内面と向き合い歌にしていくということが〈見る〉ことなのかもしれない。


「かりん」(二〇一九・八)所収