土岐友浩歌集『ナムタル』を読む

  富士山にたいした用はありません 松の葉っぱをポケットに挿す

  信長は自分から火をつけたこと ポイントで消費税を払う


 一首目は冒頭の連作「サマータイム」から引用した。この歌を読んだとき、すなわち歌集を読み始めのときに、何か隙間もしくは空間があるように感じた。松の葉っぱというモチーフは、富士山と並置されると三保の松原を彷彿とさせる。万葉集にも羽衣伝説にもなっている強固なイメージの連合を、たいした用はないと切り、一字空けて羽衣の松を連想させる葉をポケットに挿すのである。富士山にたいした用はないと明言することで、見せ消ちのようになり、暗に羽衣伝説や謡曲に惹かれていることがわかる。富士山と三保の松原を切り分け、その間に一字空けという空白があることに、先述の空間を感じたのである。土岐は富士山と三保の松原の強固なイメージの連合のような、いわゆる“つきすぎ”を嫌い空間をつくったのだろう。そうすると風通しがよくなり、新たなイメージが生まれてくる。同じように過去のイメージを刷新する歌として二首目がある。織田信長の最期、本能寺の変は現代においては大河ドラマのイメージが強い。大河ドラマ自体も辿ると『信長公記』が有力な資料になっているので、大体本能寺が燃えるのシーンでは明智光秀方が火矢をけしかけている。信長が自ら火をつけたとは何か。争いの火だねという意味での火とすると納得感がある。明智光秀が謀反した動機も諸説あるが、信長の粗暴さは直接的であれ間接的であれ作用している。土岐はさらに下句で消費税をポイントで払うと飛躍させる。消費税をポイントで払うことでお釣りがでない。キリがよい、小銭が溜まらず、買い物しても後々煩わしくない。この煩わしさと、信長の禍根、スケールが全く異なるが近しいものがあるのかもしれない。空白にそのスケールの違い、時空間の違いが託されている。


  ぶくぶくと山のすきまに雲が出てうがいが好きな能因法師

  パリの死はあまねく溺死ではないか ぶどう畑がまだらに光る


 〈長靴が田んぼに埋まりかけている能因塚にうずたかく雨〉という歌もある。能因塚が自然と登場する土地柄を羨ましく思いつつ、一首目を読むと、歴史的なモチーフが自然に現代に息づかせる文学性が、この歌集にあることを感じる。能因がうがいが好きかは寡聞ながらわからないが、妙に説得力があるのは作者が能因に親近感のようなものを抱いていることをこの歌から感じるからである。信長の歌はタイムスリップといっていいほどのイメージの飛躍があった。一方で能因の歌はタイムスリップというより、能因ゆかりの風景の擬人化で、そこに一字空けの要否がわかれるということだろう。二首目のような距離がある対象、たとえば異国の歌になると切り口が海外文学様になる。パリは“花の都”などと日本ではいわれるが岡本かの子のエッセイや、ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』、ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』のパリの描写は、社交や芸術、人々の熱気や政治、メディアが供給過多になっている混沌とした街である。土岐は先行する作品の文学的な雰囲気を引き受け、パリの死はあまねく溺死、つまりその混沌に溺れたのではないかと問題提示するのである。


  これからもマカロン、きっとふたりでは二元論から逃れられずに


 日常生活が題材の歌だと、マカロンと二元論という韻を踏みつつも、カラフルで甘いお菓子と、両雄並び立たないというシビアな概念とを対で呈示する面白さがある。下句は人間関係の歌で、上句はマカロンという柔らかいモチーフで下句のシビアさを中和している。〈するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら 村木道彦『天唇』〉を思い出し、マシュマロのようにマカロンがあると思った。

 歌の空間が何を意味しているのか考えたり、何かその間隙に存在するのか探ったり、マカロンのようにふわふわして緩衝材のような役割をしているのかなと思ったり、読者が歌を読みながら考えを巡らせる歌集だと思った。その巡回は文学散歩や博物館を巡ることに似ている。