東京都写真美術館で開催された企画展「今森光彦 にっぽんの里山」を見に行った。里山はかつてのようなありきたりの風景ではない、例えば環境省の政策である「SATOYAMAイニシアティブ」は生物多様性や自然共生社会の実現を提唱している。政策由来の里山は利益関係のある企業や、政治的な思惑の存在を勘ぐってしまい気持ちいいものではない。また、かつての里山はありふれた存在であり、写真展の主題にはならなかっただろう。来し方を踏まえ、里山という概念を考えようとすると結構難しいと思った。政策のように端的な文章で表現できるものではない。一方で、写真は里山を私たちに暗示してくれ、よっぽど氷解する。
「カモシカとアジサイ」は題名の通りカモシカとアジサイが並んでいる。アジサイの花は全くレンズに向いていないし、カモシカはカメラ目線(カモシカのカメラ目線ははたして正面なのだろうか、側面?)である。この衒いなさに、主役はカモシカでもなくアジサイでもない、カモシカとアジサイが存在する里山という空間なのだと考えた。「豊漁を祈る」では神社に漁でとれた魚を供え、男が祈る。カメラの視点は魚と男を正面から捉え、それは拝殿からの視点、つまり神の視点である。神は人間と海の調停者のような存在なのかもしれない。
今森は里山をあえて定義せず、「他者に認めてもらうためにあるのではなく、そこに住んでいる人や生物のためにあることを悟った」(「eyes TOKYO PHOTOGRAPHIC MUSEUM NEWS MAGAZINE」2024 Vol.117)と述べる。そう考えると、里山に住むと自覚して住んでいる人は少ないかもしれない。筆者が住む所沢市の隣の市である、入間市の雑木林の作品が本展にあった。国木田独歩のいう武蔵野の雑木林といえばそうかもしれないが、筆者の自宅の周囲には無数にある光景である。里山が主題の写真展に来つつ、まさか自分が里山に住んでいるとは思いもよらなかった。おそらく里山に住む動植物、あるいは人間が、その外部の人から「あなたが住むのは里山だ」と言われ自覚するものなのだろう。それこそ、かつてはありきたりで、今はありきたりではなくなった里山なのだろう。