門脇篤史歌集『自傾』を読む

 一九五七年に結成された芸術団体アンテルナシオナル・シチュアシオニストは、「状況の構築」、「日常生活の革命」を目標に据えていた。学問的な権威を嫌いあくまで市中を舞台に、ノートルダム大聖堂の祭壇の占拠、道路標識の向きを変え・書き換えること、ビル屋上からのビラを散布するなどの活動をした。アンテルナシオナル・シチュアシオニストにとっての「日常生活」は、資本家が労働として搾取するもので、また搾取されている側も、余暇には他者の労働を搾取する。そうした資本主義システムに植民地化された「日常生活」を嫌ったのである(野上貴裕、「シチュアシオニストの「日常生活論」」(二〇二三・三/「Phantastopia」第二号))。さて、筆者がマルクスの『資本論』を読んだときも、搾取構造や、資本のために存在する余暇の存在に、給与所得者として絶望したことがある。神は死んだようだが、物神はまだ死なない。アンテルナシオナル・シチュアシオニストのように過激な手段に訴えようとは流石に思わないが、大いに共感できる。

 前置きが長くなった。資産家でもない限り、そんな「日常生活」のなかに私たちの多くは生きており、門脇篤史歌集『自傾』もご多分に漏れず、その「日常生活」の中に存在する。アンテルナシオナル・シチュアシオニストのように過激ではなく、一方で資本主義システムに植民地化された日常生活を内面化しているわけではない。そんな「日常生活」との距離がある。

 

  歌詠めば日々はかなしも生まれゆく愚にもつかざる生活の歌 門脇篤史『自傾』

 

 歌集を読む中で半ばに引用歌が収められている。こういう主題を答え合わせしてくれるような歌があると有難い。引用歌に出遭う前から、本歌集に潜む資本主義システムに植民地化された「日常生活」への薄々と忌避は感じ取っていた。日常のトリビアルな場面が歌になっているのに、俗な部分は肉の余分な脂身を削ぎ落すように描かれていないからである。アンテルナシオナル・シチュアシオニストは「日常生活」に鈍器や銃器で正面から戦いを挑む姿勢があるが、門脇は「日常生活」を忌避する、または麻酔下にメスのような鋭利なもので、本質的な部分を「日常生活」から摘出する。引用歌の裏を返せば、歌を詠まなければ日々は愛《かな》しいものではなく、「日常生活」のような苦しいものである。作歌により、「日常生活」から歌という形の本質を摘出するのである。

 

  とうめいな袋の中にみかん満つたがひの皮にしづかに触れて

 

 一首目は市場に出回る蜜柑の一般的な光景で、題材としては卑近なものだ。しかし、とうめいなというかな書きの表記、そしてとうめいな袋という閉塞感や、下句で蜜柑の傷みやすい皮を擬人化し、読者の感覚と袋詰めの蜜柑という物体を接続させ歌にしている。下句の擬人法もいわれてみればそうかもしれない、というほど目立たない。「日常生活」のなかに蜜柑があり、そこから歌を詠む、この歌人ではあたりまえの行為が、蜜柑と読者を「日常生活」から解放し、普段なら接続し得ない回路で接続する。

 

〈五年後の私〉を語る隣席のをとこに紅きネクタイは垂る

昼食にぬるきスープを飲み干せり誰かの生の端役を生きて

はつかなる手当を酒に変へてゐて草かんむりのごとき役職

 

 「日常生活」などを引き合いにだして、回り道してしまったが、程よい厭世観も面白みがある。一首目の〈五年後の私〉を主体は信じていない。訝し気に隣席を見ると紅いネクタイの男がいる。紅いネクタイとは、生真面目で如何にも社会性があり、「日常生活」に囚われているようなセレクトである。主体は、この男自身も〈五年後の私〉を信じているのだろうかと考えているのである。ネクタイは垂るという結句の提示の仕方が少し投げやりであり、突き放した感じである。隣席の男はそれほど憐れに映り、〈五年後の私〉を信じ込まされているような立ち位置で登場している。二首目はミッドライフ・クライシスのきらいがある。中年の危機ともいわれ三十歳代後半からみられるという。辞書的な定義がないほど多様だが、インターネットで調べると多くヒットするので無視できない概念である。雑にまとめるとキャリアや私生活の安定期に差し掛かり、アイデンティティが揺らぐという現象である。なぜ二首目がミッドライフ・クライシスなのかというと、スープがぬるいからだ。また結句も主役ではなく端役というぼんやりとした不全感があり、その茫漠さがミッドライフ・クライシスなのである。三首目も手当を酒代に変えることと、役職草かんむりに喩えるところに、ミッドライフ・クライシスや低成長時代の世相がみえる。また、筆者は下戸なので共感できないが、「酒は歌を生む」いう話を聞いた。そのテーゼに則ると、手当は酒に変わり、そこから歌ができるということもあるのかもしれない。程よい厭世観は資本主義システムの侵略に付き合わないことである。アンテルナシオナル・シチュアシオニストとはまた違った戦略で「日常生活」に抗しているともいえよう。

 

  たわむれに殺めし鮠の魚影《うをかげ》のまなこ閉づれば不意にあらはる

  ゴオガンの自画像見ればみちのくに山蚕殺ししその日思ほゆ 斎藤茂吉『赤光』

 

 オマージュなのか、筆者の思い込みなのか、一首目を読むと茂吉の歌が彷彿とさせる。それは、筆者に茂吉は山蚕を〈たわむれに殺し〉、その小さな生き物の死を長らく忘れており、ゴオガンの自画像をきっかけに思い出したという解釈があったからである。〈たわむれに殺めし鮠〉という初句、二句が、ゴオガンの自画像のようにトリガーとなり、茂吉の歌を呼び起こした。茂吉の歌を惹起させる歌ではあるが、単語レベルでは重複しない。茂吉の小さな暴力性を解釈したうえで、自らに照射して歌したということであろう。いや、筆者の思い込みかもしれない。しかし、もし、オマージュであるなら門脇と茂吉の読みを共有しているようで面白くも嬉しい。