寺井淳歌集『埒にいる鳥』を読む

 「陸封魚─Island fish」で短歌研究新人賞を受賞したのが一九九三年、第一歌集『聖なるものへ』を上梓したのが二〇〇一年。『聖なるものへ』は、現在は入手困難なため、「かりん」誌以外は総合誌や、東郷雄二ウェブサイト「橄欖追放」の内の「058:2004年6月 第5週 寺井 淳 または、短歌的技巧を駆使して〈私〉への収斂を拒む方法論」(http://petalismos.net/tanka/tanka-backnumber/tanka58.html、二〇二五年一月五日最終閲覧)で寺井の作品に触れたという人が多いだろう。

 

  悪友が美人局《デコイゲーム》の経緯《ゆくたて》を語りつつ割く落ち鮎の腹 『聖なるものへ』

  神の贄なる鮑の太るわたつみは温排水の美しきたまもの

 

 一首目の言葉の斡旋に東郷は、「言葉が醸し出すイメージを重層的に一首のなかに配置することで、あたかも芝居の一場面のように生き生きと表現している。ため息のでるほどの技巧である。」と絶賛している。その言葉として悪友、美人局、落ち鮎を東郷は挙げているが、経緯を「ゆくたて」と読ませるあたりも、寺井の美学がある。「けいい」ではだめなのだ。二首目の温排水は原子力発電所の排水のこと。鮑が原子力発電所の温排水で太り、神社に奉納されるという、被爆国においては皮肉ともいえる状況を、東郷のいう芝居の一場面のように描く。『埒にいる鳥』はそんな作品世界のある作者の待望の第二歌集である。

 

  問われゐる「このオムレツのおいしさの秘密はなにか」全国民が 『埒にいる鳥』

 

 一九九三年から二〇〇一年にかけての時代、つまり第一歌集『聖なるものへ』の作品が詠まれた時期より、『埒にいる鳥』の時期である平成から令和にかけての社会状況はより混迷を極めているように思われる。この情報番組の宣伝のような引用歌は連作「オムレツ ──前提の虚偽、について──」のなかの一首である。連作のタイトルと照らし合わせると、「このオムレツのおいしさの秘密はなにか」の前提である、このオムレツ自体がそもそも美味しいか不明であることに気づく。しかし、番組ではオムレツは美味しいという前提で、おいしさの秘密を追究する流れで進行する。次の一首〈前提の虚偽をおほいてオムレツが普遍の貌にたちあらはれゐる〉がそうした現象を表している。前提の虚偽が覆われ進む、オムレツの流れに、沈黙を強いられるアレルギーのある人や、口の周りをケチャップに真っ赤に染めるグロテスクな人も連作中に登場する。寺井はオムレツという敢えて牧歌的な題材を選んだが、連作では安全保障を匂わせる歌もある。安全保障だけではなく、多くの言論が、前提の虚偽を覆い隠されるかたちで封じ込められ、世論形成されている。オムレツという牧歌的な題材の選定はアイロニカルな批評として作用している。しかし、寺井は連作のむすびで〈国民のひとりとしてはモーニングサービスの卵は半熟にして〉と詠み、はぐらかす。真面目な話で終わらせずぼやかすところが、寺井のアイロニーと飄々としたところが同居する独特な雰囲気を醸し出しているように思う。

 

  極めすぎずリラックスせよ、しすぎたり聞いては忘る「大人の抜け感」

  潤いや血色感をケアすると男性用カラーリップ(なるほど)

  若きタモリの四ヵ国語麻雀いっこく堂の声ディレイ芸いづれか凄き

 

 アイロニーは批評の矛先がなければ生じないが、飄々とした歌は随所にみられ歌集の読みどころになっている。一首目は「大人の抜け感」を見聞きしたが、それが何かは忘れてしまった。忘れてしまったのはリラックスしているからだろうで、「大人の抜け感」は達成されているだろうという循環構造のある歌。脱力している歌なのだが、グルグル回るところが寺井のユーモアである。また、抜きんでているという抜け感と、ポカをするの抜け感とダブルミーニングにもなっているとも読める。二首目は男性用カラーリップという、今時な商品に相槌を打っている場面。この(なるほど)は美容というより、自身の加齢により若い頃より唇の血色がくすんだということがあるかもしれない。(なるほど)は男性用カラーリップだけではなく、自身の加齢にも頷いている。三首目はいっこく堂と、AIが連作のテーマ。声ディレイ芸は確かに面白く、腹話術界の突然変異であり進化ともいえる。と同時に、同じような革新性のあるタモリの四ヶ国語麻雀を想起する。〈突然変異が進化にあればAIの突飛な発想も突飛にはあらず〉という歌が同じ連作中にあるが、タモリもいっこく堂もAIではなく、自力で進化したその名の通り芸人であると寺井は感心しているのだろう。

 

迢空の追ひこしにけるをとめひとり映えなきかされど石に刻まれ

  廃舗装路いつかだれかがこの道をつくりしと思へばつつしみ越えゆく

  未成線のあと棒立ちの脚ひとつ橋載るをなほ半世紀待ち

 

一首目は詞書に〈邇摩《にま》の海いそにむかひてひろき道をとめ一人をおひこしにけり 釈迢空 大正十三年〉という歌が引用されている。邇摩《にま》の海は島根県大田市の仁万海岸のことで、調べると白い砂浜と日本海が美しい。迢空の歌は、海に向かって歩く途中、日焼けしたその土地に生きる女性を追い越した、その背景には仁万の海が広がっていたという雄大な情景のある歌。迢空の詠んだ雄大な景色は現代にはなく、歌碑から浮かび上がる心象風景で察するのみである。寺井は迢空の歌に応えることでその女性を呼び起こす。迢空を寺井が引用したことは、他の歌の読解の補助線にもなる。例えば二首目は、廃舗装路というひとけのない道を、かつて敷設した人を思い出すという構図は、迢空の〈葛の花踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり〉と同じである。一首目の詞書のように明示されていないが、迢空が念頭にあったと推測できる。迢空が民俗的な素養で歌を詠むとき、存在しない古代の事物も詠み込まれる。寺井が詞書で引用した〈をとめ〉も眼前にいたのではなく、夢幻能のように過去の人物を幻視したことも考えられる。そこには古代浪漫だけではなく、退廃美ともいえる美しさがある。また、超俗的な姿勢でもある。この美学を寺井は受け継いでおり、二首目の〈廃舗装路〉も現在使われている道路というわけにはいかなかったのだ。また、三首目も退廃美や超俗的な姿勢がみられる。半世紀という結構な時間を無為に橋脚は過ごしているのだが、〈なほ〉とさらに時間が流れることを示唆する。歌のなかでは永遠、または橋脚が朽ち果てるまで時間が続くようである。これも実用化されている橋脚ならば減価償却年数など俗っぽい要素が生じてしまい、途端につまらなくなる。

 

  陽《ひなた》といふ名に負ふ少女窓辺にて頭上五センチあさがほ咲かす

  野放図なわかものがゐてアマデウスその哄笑をともしみて聴く

 

 最後に好きな歌を二首挙げたい。一首目は頭上五センチという高さに窓辺の明るさや、そこから覗くあさがおの花が思い描ける。少女の陽《ひなた》という名前も相まって、美しい絵画のような一首である。『聖なるものへ』の東郷の評である「言葉が醸し出すイメージを重層的に一首のなかに配置することで、あたかも芝居の一場面のように生き生きと表現している。」は、美人局《デコイゲーム》のような鋭敏な言葉に向けられたものであったが、一首目は柔らかく開けた世界に、東郷の評する点が資しているので、好きな歌として挙げた。二首目は逆に美人局《デコイゲーム》のような鋭さが残っていると思った一首。若者は鬱陶しくも、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのような才気があると羨ましくもあるという歌。野放図、アマデウスという言葉の斡旋のセンスが第一歌集を思い出させる。