まことは黄金色に輝く(「方代研究(七五)」二〇二四・八)

   瑞泉寺の和尚がくれし小遣いをたしかめおれば雪が降りくる 山崎方代『右左口』

 方代はエッセイ集『青じその花』(一九九一・九/かまくら春秋社)に、瑞泉寺の縁起について「臨済の名僧夢窓国師が開いた寺で、夢窓自ら風雪の鑿をふるって(略)石の上に、いみじくも瑞泉蘭若をくりひろげたものだ」と書く。風雪は大工道具の銘、蘭若は寺院のことである。瑞泉寺の住職大下豊道和尚から聞いたのか、夢窓疎石の大工道具までわかるのはリアリティがある。むしろ、本当か疑いたくなるほどである。方代はさらに「夢窓は(略)甲斐の国東八代郡右左口村字心経寺で幼年から少年をすごした。」と語り、方代と夢窓疎石は同郷だと書く。さて、疑ってかかるのはよくない。田澤拓也著『無用の達人 山崎方代』(二〇〇九・六/KADOKAWA)のなかで、「かまくら春秋」(一九八二・一)、同(一九八二・二)の山崎方代・里美弴・豊道和尚による鼎談が紹介されている。豊道和尚が「御布施じゃないの。お賽銭だヮ。方代さんが寺に見えられるのは托鉢に思えるんだヮ」と発言しており、小遣いをもらっていたことは本当のようだ。この歌は嘘のようなまことといえる。

本名は龍吉である父上を人みな健やんと呼んでおりにき 『こおろぎ』

 この歌も嘘のようなまことの歌。愛称であっても龍吉と健やんでは随分違う。全然違うのに愛称がとおる大らかさを楽しむ歌だと思っていた。「方代研究」第六九号(二〇二一・八)の「方代短歌の背景を探る」で富永光子が方代の父の話し方が喧嘩腰で「けんやん」と呼ばれていたと述べている。喧ではなく敢えて健を当てることにより、わからなさが生まれ、解釈の楽しさが生まれている。

実をもてる藪柑子これを亡き母は西行法師と呼んでおりたり 『迦葉』

西行法師と呼ばれる植物は、富永(「方代研究」第七二号(二〇二三・二))によると藪柑子ではなくランである。藪柑子を西行法師と呼ぶというのは方代の嘘なのである。山に自生する蘭を西行法師と呼ぶとそのまま詠えば嘘にはならない。しかし、西行といえば桜の印象が強く、蘭では歌として具合が悪く思ったのだろう。むしろ、食用にもなり、ひっそりと赤い実をつける藪柑子のほうが、西行と方代の無用者である気質に合致する。方代は噓のようなまこと、まことのような嘘を混ぜて詠っていた。さて、方代の嘘のまことを考えたときに、嘘とは何か、まこととは何か分けて考えるところから始めたい。そのためには第一歌集『方代』を読みたい。

寂しいが吾れにひとりの姉があるかなしきを打つこのときのまも 『方代』

いつわりの履歴書をかき送りしをある日ふと思い出したり

このわれが山崎方代であると云うこの感情をまずあばくべし

 一首目の詠まれたとき、姉が唯一の家族であった。父は方代が出征しているときに他界、姉は開業歯科医の夫と生活していた。寂しいがという率直な初句や、靴を修理するときの道具である鑕と悲しきが掛詞になっている。二首目の履歴書は偽りであると正直に述べている。『方代』の歌がつくられた時代は戦後混乱期で、方代も姉の許に身を寄せ歯科技工を手伝っていた時期でもあり生活が落ち着かない。この時代は学歴も職歴も真偽はそれほど重要視されず、履歴書を偽ったのは方代に限ったことではなかったと思われる。三首目は自分が山崎方代であることを訝るメタ的な視点がある。姉を詠うときは率直に感情を表現するが、履歴書等の社会性のある歌は真偽が混然としている。自分の生活や将来の展望もみえない、いわんや文学をやということである。噓のまことといわれる方代の文学性が確立する前は、方代は嘘とまことに葛藤していた。

ガメランの楽沁むる夜半の海岸にうちあげられし軍靴一つ 『方代』

笛吹きの土手の枯生に火をつけて三十六計逃げて柿食う

 一首目は一足の軍靴を幻視する。ガメランはインドネシアの伝統音楽で、出征先であるジャワ島やティモール島の暗喩である。海岸にうちあげられた軍靴は戦死した兵士、もしかすると自分のものかもしれないという歌。二首目は枯生に火をつけるというやや露悪的な気分がある。孫子の三十六計逃げるに如かずではなく、〈逃げて柿食う〉というのだから悪戯っぽさもある。いずれも喩や露悪的なポーズという、現実からは距離を置いた手法で混沌とした雰囲気を詠っている。

ひび黒き湯呑が一つ聡明な時の流れの中にて立てる 『方代』

人間が人間をさばくまちがいを常識として世は移りゆく

 一首目、〈聡明な時の流れ〉でわざわざ〈聡明〉というところに皮肉がある。ひび黒き湯呑が方代の象徴だとすると、聡明な時の流れは、戦後民主化のような打って変わる社会の変化をいうのだろう。時は流れても湯呑は罅割れながら、確かに存在するのである。また、二首目のように〈人間が人間をさばくまちがいを常識として〉流れるのが時である。方代は戦時下、そして戦後の時代の雰囲気に違和感をもっている。『青じその花』の一節の先に、次の文章がある。

兵隊にとられ、戦争に引っぱっていかれた七年間のあいだ、私は、心の底から笑ったことは、ただの一度もなかった。(略)何のために、人殺しの訓練をして、人を殺さねばならんのか、まるっきりわからない。(略)こんなことがこの国にあったのかと嘆きながら黙ってみんなのあとについてゆくほか、何もできない。 『青じその花』

 戦争において方代は、自分の本心も表出できず、戦争の“意味”や、いわゆる“国体”を理解できず、絶望しかなかったようだ。方代は戦争を語っているようで、実際は細かに語っていない。いや語れないのである。「戦史研究年報」(二〇〇四・三/防衛省防衛研究所)に収録されている野村佳正「軍事作戦と軍事占領政策―第2次世界大戦期東チモールの場合」を読むと、先に駐留しているオランダ(以下蘭)、オーストラリア(以下豪)軍との戦闘や、その後の蘭豪軍のゲリラなど、日本が連合軍に敗戦・撤退するまで戦闘の連続であったことがわかる。また現地の住民主体の慰安所を設置、ゲリラの掃討とともに現地の住民の殺害、耕作や道路整備などの過酷な労働や体罰があったと書かれている。方代の「こんなことがこの国にあったのかと嘆きながら……」の「こんなこと」が何だったのか、「こんなこと」と漠然としか表現できないことが理解できる。戦地での体験は心理的外傷となり、方代の歌はときに露悪趣味や自己欺瞞の外見を備えてしまう。

白い靴ひとつ仕上げて人なみに方代も春を待っているなり

ほんとうの酒がこの世にあった時父もよいにき吾もよいたり

一首目はうってかわって、靴の修理の仕事をひと段落させ、春の気候を感じるという気持ちのよい歌。ここに出てくる〈方代〉は等身大の方代のように思う。戦争や戦後の雰囲気を詠むとネガティブにならざるを得ないが、目の前の仕事に没頭するといっとき忘却できるのだろう。二首目の歌は藤島秀憲が『山崎方代の百首』(二〇二三・二/ふらんす堂)で解説している。藤島は『青じその花』の一節「あのころは、まだ本当の酒がこの世にあった。ある晩、父とともにのみ明かしたことがあった。酒は黄金色をしていた。」を引用して、母が生きていた時代、つまり楽しかった時代に飲んだ酒の歌であり、「もう二度と取り戻せない時代なのだ。」と締めくくる。この二首のように親しい友人と雑談するなか、胸中をうちあけるような素直さが、方代のまことといえるのではないだろうか。本文冒頭で引用した嘘のまことの歌はどれも家族や近しい人の歌である。方代は戦争体験により国や人生に不信感を抱いたが、それだけではなく、〈ほんとうの酒〉のように黄金色をした、信じるに値するものを見つけたのだった。

一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております 『こおろぎ』

 本当の恋の相手は、同じ歌誌「工人」に所属している広中淳子とされている。『青じその花』に方代が広中の自宅を訪ねるくだりがある。方代はある日旅に出た折に和歌山県に立ち寄り、結核療養中である広中の自宅を訪ねる。「工人」に掲載された歌に恋心を抱いた方代は、当然に広中とは初対面である。しかし、方代は広中と対面し、「ああ、私ははるばるとこの人に会うためにここまで来たのである」と思う。そして、「思わず『おしたい申しております』という言葉が口をついて出て来た」と告白する。この劇的な展開は嘘のまことだろうと思うが、本当の恋である。きっと黄金色をしていたに違いない。


「方代研究(七五)」(二〇二四・八)より