方代、方代さん、何度も呼ばれ親しまれているはずなのに、短歌作品でも写真でも方代はいつも孤独に映る。同じく孤独を持つ者として十五世紀のフランスの詩人フランソワ・ヴィヨンがいる。ヴィヨンは父母と幼少期に別れ親類の聖職者に引き取られるが、パリ大学に入学し学僧の道を進んでいるときから悪行が目立つ。
郷里の鶯宿峠《おうしゅくとうげ》に立っているなんじゃもんじゃの木の股から生まれてきたような人間であるけれど(略)私は間引きそこねて生まれてきたことはまず間違いがない。名前が方代である。ホウダイとは死んでも生きても出放題という意味らしい。 山崎方代『青じその花』(一九九一・九/かまくら春秋社)
ヴィヨンは才智あふれる、パリの学士ではあったものの、騙し《フリポヌリ》やいたずらの名人で通っていた。諺にもいうが、〈かくのごとき生きざまにして、かくのごとき死にざま〉なのであった(略)後世は、厚顔無恥にもペテン師稼業に手を染める者を〈ヴィヨンVillon〉と呼んだ エティエンヌ・パーキエ『フランス考』第八巻60章「ヴィヨン、ヴィヨンする、ヴィヨンぶり」(宮下志朗訳『ヴィヨン全詩集』、二〇二三・四/国書刊行会)より
方代の「死んでも生きても出放題」という語りと、歴史家パーキエの「かくのごとき生きざまにして、かくのごとき死にざま」というヴィヨンの説明に出生への不確定さ、無頼めいた人生がみてとれる。また、偶然にも二人とも「方代さん」、「ヴィヨン」と多くの人に名が呼ばれる作家であった。
汚れたるヴィヨンの詩集をふところに夜の浮浪者の群に入りゆく 山崎方代 『方代』
ゆく所までゆかねばならぬ告白は十五世紀のヴィヨンに聞いてくれ
方代は戦後の混沌とした空気の中、ヴィヨンに傾倒し自らを重ね合わせる。浮浪者の群に入りゆくのはパーキエのいう〈ヴィヨン〉のようであり、二首目では自らの抒情を全面にヴィヨンに託している。阿木津英は『方代を読む』(二〇一二・十一/現代短歌社)所収の「方代文体と鈴木信太郎訳『ヴィヨン詩鈔』」で方代の歌におけるヴィヨンの意味として、①戦争によって人生を追放流竄された方代がヴィヨンに共鳴したこと、②ヴィヨンの詩の影響で歌に〈方代さん〉という人物を演出登場させたこと、③文語口語が混じった五七調の鈴木信太郎訳でヴィヨンの詩を読んだことを指摘する。方代とパーキエの語りの共通性は阿木津の①、②の指摘を改めて支持するものであろう。
若い頃、仲間の勇気ある幾人かはさらりと歌をふり捨てて、小説や評論に鞍変えしていったが今では立派に一家を成している。それはそれでまことに結構なのであるが、私は別にうらやましいという気も起らない。ひとつの事をすることは、他の事を一切やらないということであり、首を右左に廻さないことでもある。だから、ふり返る首はいらないということになるわけだ。いくところまで歩いていってこの体でたしかめてみなければわからぬ。野たれ死はまぬがれないか。 山崎方代『青じその花』
小説や評論に鞍変えした仲間というのは一九四八年一〇月に創刊された歌誌「工人」の同人の笠原伸夫と倉持正夫と考えられる。笠原は一九七九年から日本大学文理学部教授に着任し、中世から近代文学にかけての著書が多数ある。倉持は著書に『死者たちの夏:倉持正夫作品集』(一九六九・一〇/木馬社)があり、「文學界」(一九六六・一二)の同人雑誌評でも論じられている。笠原、倉持の文学者、方代や、岡部桂一郎などの今も読み継がれている歌人と多士済々の同人誌もそうそうないだろう。各同人の活躍を追うと当時の「工人」の熱気がみえてくる。さて、仲間がジャンルを越境して活躍する中で、岡部は方代に『ヴィヨン詩鈔』をすすめた。岡部は『右左口』の後記に「彼が若いころヴィヨンにとりつかれたのはやはり放浪の力杖としたかったのだろう。」と述べており、先述の阿木津の考察に近い認識に基づいて方代にヴィヨンをすすめたと考えられる。しかし、想定以上に方代はヴィヨンと深いところで共鳴し、「ふり返る首はいらないということになるわけだ。いくところまで歩いていってこの体でたしかめてみなければわからぬ。野たれ死はまぬがれないか。」と内在化していくことになる。
阿木津は『方代を読む』所収の講演録「方代の修羅」でさらに方代とヴィヨンの関係について追究しており、方代はチモールに出征している際に当然に他者を傷つけたことも推測しながら、「戦争にむりやり引っ張られて戦傷後遺症を負ったのみならず、人非人にされちまった。まともな人間の道を踏み外した者であるという記憶をもち」、戦中戦後を齟齬なくおのれを貫く生き方をヴィヨン詩集に教えてもらったと述べている。
欄外の人物として生きて来た 夏は酢蛸を召し上がれ 『迦葉』
また阿木津は復讐とは、贈与の一形態として、歌を引用しながら「戦争なんかに引っ張り込んで俺を人殺しにしちまいやがってという、(略)怒り、復讐、そういったものを機知によって哄笑とともに相手に返していく」ことを指摘している。方代はヴィヨンを杖として戦中戦後を生き、戦争、時代への呪詛を笑いに転じて贈与していくこともヴィヨンから学んだのである。繰り返される「ゆく所までゆかねばならぬ」という方代の言葉は戦中戦後の記憶を抱えながら短歌とともに生きていく決意のように聞こえてくる一方で、ヴィヨンと戦争は暗に反復されるモチーフであり、こと戦争体験に関しては方代のトラウマであるとも読める。ジークムント・フロイトによるとトラウマは戦争や列車の事故によって引き起こされ、恐ろしい事件への反応ではなくむしろ生き延びたという経験の不可解性である。それは生き延びるとはどういうことかという問いでもあり、その問いともにトラウマは反復する(キャシー・カルース『トラウマ・歴史・物語』、二〇〇五・二/みすず書房)。方代がヴィヨンの詩を読み、傾倒し、戦争体験を示唆する作品を詠むことは、生き延びたことに対して自問自答を繰り返し、「いくところまで歩いていってこの体でたしかめ」る営為なのである。
一鉢の黄菊! 戦争の句でもある 『迦葉』
みごとな卵である 鉄砲玉もとおらない
小さな鍋蓋である 黒い小さな太陽でもある
さて、方代は戦争のトラウマの反復とどう共に生き続けたのだろうか。最終歌集『迦葉』の自由律の歌にその反復がみられる。一首目は黄菊から菊の御紋を想起してしまう。感嘆符に唐突に菊から戦争を連想してしまった自分に対しての驚きが込められている。周囲の景色が一瞬、戦場に変化したようなフラシュバックである。二首目は雉の卵をみて感動しているのだが、無意識に銃弾も通るまいと戦争を持ち出してしまう。一首目のような衝撃はないものの、意識の底に戦争は常に潜んでいるのである。三首目は鍋蓋を黒い太陽と幻想的に捉えているが、黒い太陽という明と暗が反転する不穏なモチーフは、戦争の心的外傷からくるネガフィルムのような景色である。短歌の定型に成型するよりも素早く詩にできる自由律に反復される戦争のトラウマを読み取ることができる。フロイトのいうように生活はトラウマに規定される部分が多く、戦争という壮絶な生き残り体験の心的外傷は特に深いのであろう。
夕日の中をへんな男が歩いていった俗名山崎方代である
軟膏を炙《あぶ》っているとかかる夜にかぎって山は山火事である
年老いた博徒が一人すみついて黒い豆腐を作っています
しかし、歌の中の〈方代さん〉が登場する作品からはトラウマに捉われない自我がある。へんな男というのは「浮浪者の群」、「人非人」よりも柔らかい表現である。追放流竄や呪詛は感じさせない。二首目のように火をみても戦火にはいかない。しかし、山火事も十分不穏ではありトラウマの反復と出立と微妙なバランスを保っている。三首目は博徒と自らを表現しており、ヴィヨンを彷彿とさせる。黒い豆腐は黒豆でできた豆腐で実際黒いのだが、情景としては、先に引用した「黒い太陽」のような不穏さがある。二首目よりは三首目のほうがトラウマの影響が濃い。〈方代さん〉と自らを俯瞰することはトラウマと共存していく術でもあるのだろう。また、先述の阿木津の論じた呪詛や怒りを機知により哄笑として相手に返す歌も一つの術であろう。ヴィヨンは拳を、戦争は武力を相手に返すのだが、方代は違う。
六月六日真裸になって手を合わせチモール島を偲んでおる
真裸なのは戦場の再現か、真裸の魂で戦没者と向き合っているということか。祈るのは歌の中の〈方代さん〉ではなく、山崎方代その人である。ふいに襲われるトラウマ以外にも、正面から向き合う戦争の記憶がある。精神分析的な視点で論じるときに、忘れてはならない方代の姿勢だ。方代は「いくところまで歩いてい」きトラウマを反復しながらも御し、ときに出立した。そうした作品をビヨンド・ヴィヨンの歌と呼びたい。