海と空の匂い 佐藤モニカ歌集『夏の領域』を読む

  イニシャルのMがカモメに少し似るそれだけの縁われとカモメは
  「ずつと一緒」のずつととはどのあたりまでとりあへず次は部瀬名岬《ぶせなみさきわ》
  麦の穂をタクトのやうに振るときに故国の歌は母のために鳴る

 カモメとわれは離れているようで、少し似るというのは形状だけではなく、空に少し近いと読んでもいいかもしれない。部瀬名岬は夫の沖縄県名護市にある岬で、夫との時間軸と、夫の故郷である沖縄と重なっていく。母から佐藤へとブラジルのルーツは続いている。麦の穂からブラジルの麦畑の情景を想起すべきだろう。タクトのように戯れに振ることで、下句の力強さでわれは故郷につながる。

  子も猫もゐなくなりたる家のなか母の球根ぐんぐん太る
  いかなる与太郎いかなる花魁住みをるや噺家のなかの江戸の町には
  人の世に足踏み入れてしまひたる子の足を撫づ やはきその足
  なべて女の産みたる命その命くづほるるとき嘆きのピエタ

 歌集の中で結婚、出産があり家族詠が多い。われとその家族の生活史が豊かに詠まれている。結婚し実家から出たあと、残された母の心情を詠んだものだが、球根は寂しさの比喩だけではない。過去の記憶や、娘をめぐる様々な思いなどが膨らんでいくのである。層のあり冬を越す球根という比喩はまさに、辞書では見つけられない抒情を表した比喩である。弟は噺家になったようだが、落語は特に古典落語は、アレンジされ江戸の話なのに時折現代のモチーフが入り込んだりして観客を楽しませる。弟のつくりだす江戸の町はどんなところか、歌だけでなく、詩や小説を書くストーリーテラーな一面のある佐藤は気になるのである。後半は出産・子育ての歌もみられる。引用した二首ともに、出産を全肯定してるわけではなく、同時に失う悲しみが訪れる可能性が生じたことを詠っている。光には影が添うというと陳腐になるが、出産に対しても内包する死を感じるのは鋭い感覚だ。このように家族が佐藤の歌集の世界に参加していて、息遣いを感じるのも読んでいて楽しい。

  路上にて盆栽売る人うつむきて優しさうなる背中が覗く
  酒蒸しにされゆく浅蜊の上機嫌その幾つかは鼻歌うたふ

 佐藤の歌の視点は多くは肯定的であると感じる。盆栽の歌では、視点が〈優しさうなる〉方向に目が向いているということになる。背中なので、哀愁や孤独を感じてもいいのだが、または盆栽ような年季でもいいのだが、素直に優しそうと述べるところに肯定感がみてとれる。また浅蜊の歌は、浅蜊を食らう食に潜む残酷さを抉るというより、純粋に酒蒸しで浅蜊が楽しそうに酔っ払っているかもしれないという寓話的な発想がみられる。もし、前者のように皮肉に歌うならどこかに屈折や、肉々しさや、即物感をいれるであろう。
 文学はどうしても光よりも影、健康さよりも病的な繊細さが反響を生む傾向があるように思える。本歌集はむしろ家族への思いや、沖縄や南米の風土、肯定的な目線が満ちている。そんな歌集の読者はときに考え、ときにうなずきページを繰っていく。そうした安心感や信頼感は読書の時間を豊かにするものだと思った。ひりひりした歌集を否定するわけではないが、ゆったりと読める歌集は、天気のいい休日にまた読みたいなと思わせる。