二〇二四年四月三〇日に窪田空穂を顕彰する会である「空穂会」が催された。メインイベントは馬場あき子、三枝浩樹、米川千嘉子の鼎談である。内容は本ブログの別記事で紹介してあるので割愛するが、そのなかで〈げにわれは我執の國の小さき王胸おびゆるに肩そびやかす 窪田空穂『濁れる川』〉を引用しながら、我執は生涯の主題であり、自我に執する心を否定的に捉えつつ無私、去私とやがてプラスに転じるという話が興味深かった。しかし、空穂における去私とは何か、夏目漱石のいう則天去私とは違うのか、漠としていた。その後、何となく橋本喜典歌集『聖木立』を読んでみると空穂の我執、去私を踏まえた歌があることに気づいた。
忘れものしてゐるやうに歌詠めず越後の米をゆつくりと噛む※ 橋本喜典歌集『聖木立』
※口辺に齒
をりをりは濁り激しく岩を噛む※肉体にやどる精神の川 以下同
※口辺に齒
一、二首ともに噛むという言葉がある。一首目は食べる動作としての噛むで、二首目は食い込むという意味合いでの噛むである。米粒の質感は食べるより噛むのほうが伝わるし、精神の川が岩を噛む様は概念的だが本質に迫る。どちらも実体や本質の内部にまで自身の歯や精神が迫る共通点がある。
麻痺の足「われ」を支へてここに立つ老いし桜の花びら享けて
園芸店の水に濡れたる石畳杖と足とが用心をする
次に引用した歌が麻痺で自由が効かない足の歌である。脳卒中等で麻痺の後遺症が残ると運動機能障害だけではなく感覚障害も生じることがあり、麻痺のある患肢は比喩ではなく、我が物ならぬ感覚になる。リハビリテーションや装具を装着すれば一首目のように麻痺がある下肢でも身体を支えることができる。引用歌の麻痺の足という即物的な把握や、鍵括弧のわれは自己を客体視しているということである。我が物ならぬ感覚により、足や身体は自我の支配から逃れ、いわば文学的体性感覚の麻痺の状態になる。二首目においても文学的体性感覚の麻痺はみられ、足が客体視されている。二首目では杖も身体の一部のように登場する。一度解体した身体は再統合され歩行補助具である杖も身体に取り込む。
雨音も風音もなきわが耳はこぼるる萩を闇に聞くかな
難聴で却って静寂を得る歌にも去私の要素があるように思える。萩はこぼれる様は耳では聞こえない。しかし、難聴になりじっと萩を見続けると萩の動きがみえてくるようである。今様にいうとゾーンに入るというのだろうか。萩に自我を没入させているようである。
洗濯物さきほど干していま見れば妻が直して綺麗にさがる
自己戯画化した歌は、自我が全面に出ている。自我に執していると思うが、ユーモアは物事を客観視しないと生じない。自我に執しているようで、その自我で諧謔を弄している点においては去私なのかもしれない。上句は洗濯物を干す自分自身が現在形では出てこない、その点で自我に抑制が効いており品がある。下句のほうが現在形の分リアリティがあり、くすりとさせつつ妻と自分の関係を提示する。
空穂の去私はキリスト教の影響といわれることもあるが、古典の注釈や鈴木大拙とも交遊などをから、仏教や日本思想の影響も大きいと考える方が自然である。空穂から橋本へ、近代から現代へと我執、去私は引き継がれる。西田幾多郎『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』(一九八九・一二/岩波書店)所収の「絶対矛盾的自己同一」の一文、「現実にあるものは何処までも決定せられたものとして有でありながら、それはまた何処までも作られたものとして、変じ行くものであり、亡び行くものである、有即無ということができる。」を読むと肉体を伴う自己、自我は有であり、空穂や橋本が去私を詠うのは無への気づきのようだ。次の歌を読むと有即無であり、そこには肉体を超えた時間が流れているように思える。
おそらくは人に聞かせず幹の芯裂くる冬なれ古木の桜