作中主体、あるいは作者の実感が歌になったとき、それは一人の声ではなく多声になるに違いない。そう考えたのは、生活詠も個人史も身の上話的な散文脈では、その域を出ないことに対して歌はそれ以上の共感を生むからである。
わたくしの殻につまったかなしみを背負うときふいに足強くなる 浅井美也子『つばさの折り目』
パラオ語のツカレナオスはビール飲むことそんなこと聞いている部屋 大松達知『ばんじろう』
一首目は殻が蝸牛やヤドカリのような殻とするなら、殻とは住まいのことだろう。歌集の主題のひとつに専業主婦としての主体があるが、家父長的な概念の“家”ではなく、生活の基盤としての住まいのことといえる。物質的な住まいに家族が生活するとするだけかなしみが詰まってくる。かなしみは哀しとも愛しともいえる。二首目は蘊蓄として出た言葉だろう。しかし、疲れを治すのがビールだというサラリーマン的悲哀があるし、パラオという土地柄、太平洋戦争の日本の帝国主義が背景にあることも読める。そして、その後の観光、経済による文化帝国主義までも思わせる。いずれも歌として提示されたとき、話を聞くのではなく読むものとして存在する。歌の内容に抒情が籠っており、読みとろうと読者はし、韻律も味わうことになる。一首目は結句で意思の表明のように力強く少し早足になる。二首目は下句で〈こと〉が繰り返されもたついた感じになる。どちらも韻律面からも歌の雰囲気を支えている。また、日本語は主語を省略しがちであること、そして短歌は一人称の文学というテーゼがあるが、その一人称や主語の省略が作中主体と読者の境界を曖昧にして、共感を生むという作用がある可能性があるという一つの仮説になるだろう。
女の子を好きになつたのはいつ、と 水中でするお喋りの声 睦月都『Dance with the invisibles』
手を振りて駅に別れれば明日にはまた透明の女に戻るわれらか
一首目の、水中という息苦しさ、他方、水のもつ爽やかな美しさは、女性が女性に恋をすることと、社会的抑圧の構図を詩的かつ批判的に表現している。女の人ではなく、女の子という設定も納得感があり、キャロル・ギリガンも『抵抗への参加 ──フェミニストのケアの倫理──』(二〇二三・九/晃洋書房)で「女なるものの謎とは、実際は少女たちに自分の声か人間関係かのどちらかを選ぶことを強いる。家父長制のなかでの女なるものの謎のことなのである」と述べており、女の人、成人女性ではもうすでに自分の声を抑圧し人間関係を選びとっているのである。一人称が多声性を帯びるのが歌の性質であるというのが先述の仮説だが、複数の人称が多声性を維持したまま、空中分解することなく一首屹立させているのは睦月の歌である。引用歌の収められている連作「Dance with the invisibles」の主題的に旧来の作中主体観では抒情が収束し得ず、二首目のように透明、われらと複数性のある主体であることが必要とされる。丸地卓也は「かりん」(二〇二四・四)の「トラウマ・日常生活・短歌」で、「文学にリアリティのある幻想を生む作用があるとするならトラウマと似ている」として、ジークムント・フロイト『モーセと一神教』やキャシー・カルース『トラウマ・歴史・物語』を参照しながら、短歌が「「持ち主なき経験」・「多声」・トラウマを受け入れ、言葉にし、世界に刻印する営為は、逃れがたい人類の残虐性への抗いになるように思える」と結んでいる。「トラウマ・日常生活・短歌」では人類的なトラウマと歌という大仰な主題であったが、先述のように日常生活、個人史に「持ち主なき経験」性と多声性を与えるのが歌なのかもしれない。
他者の声を聴き、他者のニーズや関心に応答する。そのこと自体は、なすべき良いことだ。しかし、この女らしさの善の倫理は、男が置き去りにされた女たちを見ようとしないか、大したことではないかのように語ることや、女が置き去りにされた自分を大目に見ることといった、普通の日常会話を支えていた。
キャロル・ギリガン(二〇二三・九)
日常生活や個人史が歌になり、「持ち主なき経験」性と多声性を獲得する様は、理解しがたい他者どおしの架け橋になる。すなわち共感性を帯びるということになる。キャロル・ギリガンの「他者の声を聴き、他者のニーズや関心に応答する。」という点では短歌はケアである。日常生活や個人史の歌、いわゆる生活詠や家族詠、境涯詠と呼ばれるものは、作中の一人または複数の主体の声を読者に届け、読後感や韻律という応答を呼ぶのである。文学のもつ共感力は幾人かの「男」たちを立ち止まらせ、自らを鑑みさせるものでもあるだろう。