カルピスは茶色の瓶が親しくて徳用パックわれは選ばず
あとがきによると中学時代の作品という。自分が中学生のときを思い浮かべると、到底この歌のような端正な歌が詠めたとも思えない。そんなよくある感想を思い浮かべつつ、歌集を編むときに中学生、高校生のときの作品を前半に配置するところに気概を感じる。青春詠がまぶしいのは誰もが知ることだが、その刹那的な煌めきと、歌集という自己保存とはやや相反し、ゆえに巻末に初期作品集を配置される構成が散見されるのである。
スピードを競いて黄色信号に突っ込む朝のドライバーたち
この歌は「II」章、すなわち高校生のときの歌である。この歌を読んだときに奥村晃作の〈運転手一人の判断でバスはいま追越《おいこし》車線に入りて行くなり〉を思い出す。奥村の作品は、進路変更とは関係ない車線変更で、当然それは運転手の一存でなされる。運転手の大仰な描写と、ただごとの現象が面白い。早川は赤信号に変わる前に黄色信号で通過したいドライバーを、スピードを競うと捉え、また突っ込むと表現している。奥村同様に大仰さ、異化、ただごとの現象のある歌である。しかし、スピードを競うというのは、奥村よりも主観的であり、読み手としては、競っているわけではないのではと、むしろツッコミを入れるべきなのかなどと考える余白がある。栞文で黒瀬珂瀾は「現代のただごと歌といえば奥村晃作だが、早川さんは奥村が築いたフォーマットを受け継ぎつつ、独特のロマンや社会への視点を獲得した点に固有の作家性がある」と述べている。引用歌を読むと、黒瀬の論に引用されていた歌以前に、その固有の作家性を獲得していたことがわかる。中学、高校生のときの作品を歌集冒頭に配置しないと、固有の作家性の成り立ちがわからない。作家時期が早い早川は高校生、大学生、新社会人のときに一つの文体をもつ早熟さがあった。
明大を私が欲し明大が私を欲したゆえの合格
伝統が生む名勝負 駅伝に勝ちたい明治、負けられぬ早稲田
ふるさとが富山のわれも新潟のコメ格段にうまいと思う
定刻で上野に〈MAXとき〉が来て富山に帰る その時が来た
作家性の確立と、社会的アイデンティティの獲得は全く異なるとも思えない。歌集を読むと早川は先述の作家性の獲得と同様に、アイデンティティも早期に獲得している。一首目は帯文で齋藤孝が名歌と書く歌。明大の教授がいうのだから半分本気、半分ユーモアだろう。歌としてみたとき反復法と体言止めの力強さに確固たる意思を感じる。二首目も体言止め、対句法の組み合わせで力強い。その歯切れのよさゆえに、駅伝のキャッチコピーのようでもあると思うのだが、早川の愛校心や、明治と早稲田の因縁を詠う連作中の他の歌の勢いで、これはこれで強く言い切るタイプの抒情なのかもしれないと思うようにもなる。さて早川は大学卒業後に富山県に戻り中学教諭となる。早川のもう一つのアイデンティティとしてふるさとがある。二首目は米処である新潟県に赴いたときに、ご飯を食べてふるさと富山を思う。米処である富山より美味い、ゆえに新潟の米は美味いという論理展開が面白い。歌において自分を起点にして何かを言い切る潔さは、栞文に大松達知が書く徒手空拳の突破力とも共通点がある。
コーヒーもジュースも無料の水さえも定量きちっとマックは入れる
〈押す〉ボタン押してるあいだ水勢は変わらずずっと湯は出続ける
上の二首は作歌時期は離れているが、両方とも給水機器に関する歌。一首目においては無料の水でさえサービスとして規格化しているという面を、二首目は押しボタンを押している間はお湯が出続けることを詠う。給水機器からシステムをみており、そこに個人の事情は介在しない点に着目している。
銭湯の男子トイレのウォシュレット無数の男の尻を洗えり
復興支援とて金華鯖《きんかさば》いわし牡蠣わかめめかぶを買って帰りぬ
システムへの目線は機械だけではなく、社会にも向けられる。一首目は銭湯のという前置きにより、無数の男は全裸であることを示唆している。無数の全裸の男の尻に、ウォシュレットのノズルは放水する。無数の全裸の男という、社会的な鎧のない男の無防備さに早川は目を向ける。二首目は東日本大震災ののちに被災地を訪れた際に復興支援にと海産物を買う。金華鯖からめかぶまで、やや過剰に買っているのも復興支援という文脈があるからだろう。早川はその主体自らの過剰さも俯瞰している。良し悪しではなく復興支援の文脈で売られる海産物と、それを買う訪問者という、復興支援であってもシステムになってしまう有り様をみている。
剣道を見たこともない顧問・オレ 象徴天皇のさびしさを思う
社会を俯瞰する冷静な視点がありつつ、同じ視点でもユーモラスに詠うこともできる。下句で急に象徴天皇が出てきて戸惑うが、剣道未経験であるオレが顧問になることと、戦後生まれの平成天皇が象徴天皇とは何か模索し続けたことと主体は並行して考えている。スケールのギャップがユーモアなのだが、据えられる、もしくは据わるという点では共通している。象徴天皇のさびしさを、象徴顧問の自分を起点にして想像することは十分に考えられる。象徴天皇という大きなシステムや問題を考える際にも、徒手空拳の突破力が短歌的に有効なのだ。
「現代の歌人と言えば俵万智」四半世紀も前の人だね
早川は一九九〇年生、本歌集は二〇二四年七月上梓。私事で恐縮だが、筆者は一九八八年生、同年に歌集を上梓した。作歌スタートは早川のほうが随分先だが、一方的に同年代の歌人と思っている。筆者にとっても俵万智は四半世紀前の歌人といえる。とはいえ、この歌に出会うまで四半世紀という時代の認識はなかった。「現代の歌人と言えば俵万智」という認識も出版メディアや、大衆の認識が作り上げたシステムであり、それはすでに四半世紀も経っている。〈四半世紀も前の人だね〉の続きは、おそらく、いまは他の誰かがいると続くのであろう。早川は次に続く“現代の歌人”の範囲に自分を含めているのだろうか。(勝手に)同世代として筆者も共感する歌であった。