アレックス・ガーランド監督脚本『シビル・ウォー アメリカ最後の日』以前の時間に生きているということ

 二〇二四年十月九日、NY株式市場のダウ平均株価が最高値を更新する。少額だが米国株式に投資していることから、水物と思いつつほっと息をつく。しかし、毎日ニュースで知らされる米国市場の動向をみると胸騒ぎがする。二〇二一年のアメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件ではクーデターを思わせる映像が現実として流れ、大統領選挙のときのインタビューは分断を強く感じる、そんな報道を目にしていたからだろう。いや、昨今はイスラエルを擁護し国際的に孤立しており、岩波書店「世界」二〇二四年十一月号で特集「アメリカという難問」が組まれるくらいであり、肌に感じる胸騒ぎは多くの人に共感されるものであろう。

そんな日にアレックス・ガーランド監督脚本『シビル・ウォー アメリカ最後の日』を見た。十九の州がアメリカ合衆国から脱退し、テキサス州とカルフォルニア州が西部勢力を結成し、内戦が勃発するアメリカが舞台の映画である。主人公はカメラマンと記者で、大統領を取材すべくワシントンD.C.を目指すというあらすじ。町中では水を求め押し寄せる人々と鎮圧する警官、そして急に爆弾が爆発する。焦点の定まらないカメラワークと、意味を奪う不協和音で眩暈がする。高速道路では大破した車そこら中に放置されており、満足に通行できず、蛇行して進む。死体もあちらこちらに転がっていたり、吊るされていたりする。背景のビルやショッピングモールには煙、高射砲、炎がみえる。駐車場には戦闘ヘリコプターが墜落した跡がある。飼い犬は野良犬になり、大きい犬が小さい犬を追いかける。力が支配する世界が犬にまで浸透している。私刑は横行し、相手すらわからない狙撃手同志が殺し合うという混沌がある。自治をし、内戦に関わらないようにする街もある。しかし、一見平和な光景のなかに、やけに散水機にカメラがフォーカスする。高射砲を撃つ場面がその前にさりげなく挟み込まれており、散水機が高射砲に重なるような仕掛けがあるのかもしれない。犬や散水機といった暗喩、具象としての銃、すべての場面に暴力の象徴が潜み、その暴力が正当性を語る。人々も大地も傷ついており、アメリカ(ネイションも国家も)自体が満身創痍であるようだ。

本作では連邦政府はあまりいい描かれ方をしていない。強権的な大統領で、FBIを解散させたとしているし、誇張なのかジャーナリストは殺されるといわれている。西部勢力は西部劇的幻想というのだろうか、強く正しい。軍人一人ひとりも比較的に理性的である。映画序盤は連邦政府のほうが西部劇的幻想を担っているのだと思っていたが、痛々しい暴力が続く中盤から終盤にかけてがらりと変わり、西部勢力がガンマンだったとわかる。西部勢力の西部劇的幻想は風刺なのだろうか、それともアレックスが内面化したアメリカなのだろうか……。

多くの人が死に、暴力に思考を支配され、街が燃える。そこまでして、政治的手続きではなく、武装蜂起した背景は映画では語られない。しかし、作品のなかでアメリカの政治はかなり悪い方へ傾いており、住民の暴力性や利己が顕在化していた。そして、内戦の終結とともに本作も終幕するのだが、その先平和になるのか敢えて描かれない。むしろ序盤の一場面にさりげなく、テキサス州とカルフォルニア州が今後戦火を交えるのではと語る男がいるほどには不穏である。主人公のカメラマンが戦場の写真を通じて、「こんなことはやめて」と祖国に警告していたつもりだったと語るシーンがある。これはアレックスが本作に込めた社会批評でもあるだろう。主人公が内戦で撮った写真という警告が、アレックスによる警告なのである。内戦という最悪な状況は対岸の火事なのだろうか、日本では本作のような状況には政治体制にも国民性的にも陥りにくいと思われる。しかし、日本の最悪な状況を想像せよと言われれば、それぞれが何かしらの事態を想像できるのではないだろうか。私たちは『シビル・ウォー アメリカ最後の日』以前の時間に生きている。