シナモン歌会、今回は山形に旅行に行ったようだ。旅行もできるし、歌もできるし、ネットプリントも出せるし、一石三鳥だなと思った。
いつか見る夢の参考になるだろうスキー場跡にコスモスの丘 仲井澪
オフシーズンのスキー場はコスモス畑になっているということだろう。少し観光客が来たりするのだろうか、物寂しいから植えているのだろうか。物寂しさが、兵どもが夢のあとのような感じがあり、夢つながりで〈夢の参考〉と呼応している。跡というから、スキー場が廃業しているという線もある。なおさら夢のあとであるが、いつか見る夢の参考というのは、主体だけではなく、集団的無意識のようにやや一般化された夢のようにも思える。
はつあきの桜並木の川沿いに芋煮会日和という声を聞く 酒田現
芋煮会日和というものが山形にはあり、歌からすると秋晴れの日が芋煮会日和なのだろう。仲井の歌を読むと芋煮会ではなく、芋煮会フェスティバルらしく、これも山形では区別されるのだろう。気持ちのいい雰囲気を詠みつつ、芋煮会の解像度が上がる歌である。筆者はこの歌を読んで、使用する言語がその言語話者の思考様式や世界観に影響を与えるというサピア・ウォーフの仮説を想起した。芋煮会を通してではわからない心地よい気候があるのではないか。
信じられる 父親の愛、一瞬で過ぎ去ったとうもろこし畑 佐藤あおい
とうもろこし畑で、父親との記憶が想起されたのであろう。とうもろこし畑の鮮やかさや広大さ、旅情、父の記憶などが混然とした歌である。旅行、吟行は楽しく、その場の風物を現象学的に詠いがちであるが、佐藤のように自らの記憶に引きつける歌も読み応えがある。韻律も初句六音で一字空けから始まるので、定型通りに流れないのだが、そこに逡巡ののちの言い切りがありよいと思った。〈人間の廃墟に咲いていてくれるコスモスが空へ届きますように〉という歌もあり、仲井の〈スキー場跡〉というのは廃業したと読むのが正解なのだとわかる。
ネットプリント全体から和やかな雰囲気が伝わってきて、いいなあと思った。芋煮は食べたことがない。これからますます美味しい季節になりそうだ。