コスモス編集委員、COCOON 所属の作者。帯文は雨宮処凛が書いており、歌集としては珍しい人選だと思った。詳細は本文では割愛するが、白川の歌集の序盤は心理社会的な葛藤が書かれており、雨宮の思想と親和性があるのだろう。いや、後半にかけての思想の軸足も然りである。「爆裂にエモい風」と雨宮は評しており共感している様子である。
独り身の夫が買いしがつぎつぎと私の味を知ってゆく皿
夫はテレビわれが雑誌をながめつつ炬燵の中で足を絡める
結婚生活の歌が前半の多くを占める。一首目の何気ない光景にも、白川が詠うと、まっさらな皿が〈私の味を知ってゆく〉況んや夫をやという情がこもる。つぎつぎと知るというところに、日々少しずつ夫、皿が、私という人間を知ることを暗示している。二首目は結句に親密さや甘やかさがある。上句はお互い別々のことをしており、ライフスタイルが異なっても心身ともに繋がりがあることを詠んでいる。結婚生活の歌は、むしろ相聞歌といえる想いがあり、本歌集の知情意の中の情の根幹を成している。
結婚し四年が経つがわたしまだお皿は二枚しか割ってない
オオバコに沸騰させた湯をかけるわたしは地味な悩みがきらい
殴られたことは一度も無いという夫と観ている貴ノ岩戦
順風満帆にみえる生活詠、旅行詠が続くが、一首目の下句の〈まだ〉、〈二枚しか割ってない〉の〈しか〉と〈ない〉、二首目の下句の〈わたしは〉と〈地味な悩みがきらい〉、三首目の上句の〈殴られたことは一度も無い〉という言い切りは、それぞれ論理学的な範囲の指定がある。一首目はお皿が二枚以上割ってしまっていると、結婚は四年以上経っているかもしれない、あるいは自分の思う生活が送れていないという対偶がとれる。そこからメタバースというと言い過ぎではあるが、IFの可能性は生じる。二首目は派手な悩みであればきらいではないという読みも成立する。三首目は〈殴られたことは一度も無い〉と夫を形容するということは、主体は誰しも一度は殴られたことはあるだろうという認識を持っていることになる。やや揚げ足をとっているようであるが、こうした細かい点に現在の生活への不安定感が読み取れ、生活詠に幅を生んでいる。
おばさんになるまえに死ぬとか言った十五のわれに往復ビンタ
今を生き、十五のわれにとっては未来のわれは、十五のわれを叱咤激励をするのに往復ビンタを選択した。力強い。そして、過去のわれはそれくらいではないと分からないと思ったのだろう。自愛の歌だと思う。
ぴったりと襖を閉じて会議中の夫に言えない「ムヒ借りていい?」
ミサイルの砲手の多くそののちを陰萎になるという噂あり
コロナ禍詠は過度に時事的にならず、リモート会議の違和感あるいは不慣れ感を「ムヒ借りていい?」に集約させるところが独特で面白い。主体の虫刺されの痒みにもやりにくさが出ている。戦争の歌もイデオロギチックにならず、俗説めきつつもどこか分かるところがあり、地味に嫌な感じのする。陰萎は男性性の減退で、マチズモにアレルギーをもってしまった状態ともいえるのだろう。そうなると歩兵や騎馬兵、憲兵にもそうした症状はありそうではある。が、砲兵のほうが題材とよく響くのかもしれない。
雨宮は栞文で歌に溺れると述べていたが、確かにうねりのある、体積をもった水のような読後感であった。通俗的にいうと人生の波とでもいうのだろうか、そのなかで、両親や姉、夫の家族の歌は読んでいて安心感があった。