裏の裏は裏 鈴木ちはね歌集『予言』を読む

 最近の歌集はフラットなものと、詩的なものと幅がかなりある。つぶさに分析が必要だが、ニューウェーブのときよりも顕著だと思われる。本歌集はどちらかというと前者の傾向がある。そして、一般論としてフラットといわれるが、どのような文学的な意図があるのかを示唆してくれる一冊である。

  堤防を上りつめたらでかい川が予言のように広がっていた
  色黒で坊主あたまで眼鏡だとほぼ確実にガンジーになる

 フラットな傾向があると先に述べたが、歌全体をみると堤防を上った後にひろがる川が予言のようにみえるという飛躍は詩的である。しかし、〈でかい〉という俗な言い回しが詩的に読まれるのを拒むかのようなはたらきをしている。次の歌も容姿だけで、劔の教義などを唱えたガンジーを登場させるところに転換がある。この歌は〈ほぼ確実に〉が俗な言い回しになっている。ガンジーがキャラクターとして消費されていることに対するアイロニーが込められている歌なのだが、迎えて読むと容姿で揶揄されることに対する批判も含まれているのかもしれない。しかし、容姿で揶揄されるところまでで止まってしまうと歌として不味くなる危険性も孕んでいる。

  明けがたのユニットバスの浴槽に立って背中を死ぬほど洗った
  西友が二十四時間営業でほんとによかった 西友は神

 詩的飛躍がある歌もあれば抑えられている歌もある。鈴木は意識的に詩と俗をコントロールできるのだ。〈背中を死ぬほど〉が歌をフラットにしているのだが、それでどこまでいけるかという歌である。死ぬほどという比喩から死が軽くなっているということを言いたいのだろうか。次の歌も西友は神という中高生が言いそうな言い回しから、お客様は神様ですという顧客至上主義への皮肉が込められている。

  超うまいスキーの動画をずっと観てそのあと玉音放送を聴いた

 染野太朗は栞文で良い悪いではなくそのような現実があると述べている。しかし、戦争の記憶が風化していく現実はどちらかというと悪い。現実をそのまま歌として提示することに対して、ニュートラルに評価すると、戦争の記憶が風化していくことに対しての諦めがあるように感じてしまう。フラットに逆説的に問題提起するという手法は諸刃の剣である。多用することで読者の感覚が飽和したり、読者との波長が合わなかったり、連作の力学が予期せぬ方向ではたらいたりとカオスな要因があり意図が伝わらないときがあるからだ。

  首のないスワンボートと首のあるスワンボートがいる秋の池
  核の傘 あるいは喩から想起するほんとうに見えている核の傘

 このような歌は読みやすい。生と死が交錯した幻想的な歌である。歌集全体の雰囲気からすると、戦没者といま生きているひとのモチーフともとれる。次の歌は、核の傘は見えないものの暗喩のようだが、実際には核兵器は見えるものだ。理屈っぽいが、核兵器をリアルに認識させる歌である。
 本歌集は巧妙な仕掛けのある歌が多く読み進めるのに時間がかかった。定型により多くの情報をこめる方法ではあるが、背理法的に読むべきなのかとか、何か俗調にした意図があるのではないかと検証する作業を経なければならず、読むときに負担が生じる。笹井宏之賞は他の新人賞より実験的な作品が受賞する印象があるが、読者もついていかなければならない。そうしたストイックさを感じた。