濱松哲朗歌集『翅ある人の音楽』を読む

  濱松哲朗は筆者と同年代で、「パチパチの会」という同年代の同人誌でご一緒したこともあった。早くから短歌に携わっていて歌歴でいうと先輩なのでいつも頼もしく活躍ぶりを拝見しつつ、一方的に親しみを抱いていた。なので本歌集は待望の一冊。装丁も組版もこだわりが感じられ濱松の文学への真剣さを感じさられる。

 さてどのように読もう。以前、ある特集で秀歌五首を挙げて論じるというものがあった。秀歌を五首挙げ論じることが、それぞれの作品論のようなものになるのではないかという意図だった。論者がある基準で五首選んで、どこに惹かれたか、どう読んだのか論じることは作品群から新たな読み筋を探すのに有効かもしれない。


  暗殺をのちに忌日と呼び替へて年譜にくらく梔子ひらく


 冒頭の連作の一首。誰のことかはわからなず、前後の歌で図書館や書籍が読み込まれていることがわかるので、それで十分だろう。暗殺は下剋上を含む政争でなされる印象があるが、もうひとつ、古くは始皇帝、近代は原敬、俗っぽいが最近だと安倍晋三など枚挙にいとまがないが、力なき民が権力を討つ構図がある。つまり、暗殺される側には大抵深い業がある。それが忌日と呼び替えられるのは、そうした権力構造や、暗殺された側の業を覆い隠すばかりか、忌日という一見風情のある言葉で顕彰してしまう。歴史修正主義といわれることもあるが、その言葉以前に無自覚に権力者側、主流派が成してきた“修正”がある。下句は薄暗い図書館で厚い書籍の年譜ページに、真っ白く薫りを振りまく梔子の花が咲いていると詠っている。情景として年譜と梔子のくらさと白の対比もよく、幻想的で視覚と嗅覚が働く表現だ。しかし、それだけではなく、梔子は口なしの掛詞で、ひいては死人に口なしという慣用句も呼び寄せる。“修正”された年譜だけがくらくある視点からの真実を語り、暗殺した側もされた側ももう語ることができず、口なし、梔子を咲かせるのみである。この思想や技巧に富み、メタフィジカルで美しい梔子の咲く一首を読むだけでも、濱松の思想や文学性、美意識が垣間見える。冒頭で筆者は『翅ある人の音楽』は一筋縄ではいかない歌集であると実感したのである。


  俺のことはほつといてくれと独り言つ 菓子パンはカロリーの塊である


 旧かなで書き言葉の口語で時折自然に文語を混ぜる文体は硬派な印象をもつ。そして文語口語のいいところも享受している。菓子パンはカロリーの塊とは青年期から壮年期に移行していく年齢で特に気になり共感を呼ぶ。しかし、それを翻すように、〈ほつといてくれ〉というのである。健康を気にする声を尻目に〈ほつといてくれ〉で菓子パンを食べるのはユーモアのある場面だが、そうではなく、その読み筋も少し残しつつも、孤りでいたいというのがこの歌の抒情である。新かなだと散文的で前者のグルマンな主体がやや前に出てきそうだが、旧かなだとより含みが感じられる。


  白鳥を焼くをとこゐて私にもすすめてくれるやはらかい部分


 白鳥は美しく詩的なモチーフだ。それを焼いている男がいる。肉になってしまったら美しいものは死んでしまうし、美しさも消えてしまう。白鳥を焼くのが男と明示しているのも、ポストコロニアルフェミニズム的な意図がある。“男”が政治的や軍事的なヘゲモニーで蹂躙するのは、それとは無縁の美や平和である。肉として食べるという行為は、例えば絵画や音楽、文学が全体主義に利用された歴史の暗喩と読める。そんな男が主体にも「食えよ美味いぞ」と言わんばかりに〈やはらかい部分〉を勧めてくる。主体は拒んだのだろうが、自分は白鳥ではなく男の側にいることを知る。歌全体に感じる不穏な空気、男の不気味さは主体の感じた抒情でもあり、読者と共有することができる構造になっている。


  身の程を知れと言はれつ 門前に屈み込みつつわれの崩えなむ


 「ルカ伝」の一節から膨らませて、連作をいくつか展開させる面白い取り組みをしている一群がある。その一節は歌集に引用されているので、行き来しながら読むといいだろう。下句はルカ伝のラザロと同じ姿勢である。上句の身の程を知れという言葉は実社会で多く不快に使われており俗っぽさがある分、門前に屈み込むように下句は劇的に展開させる必要がある。下敷きになるテキストは詞書でさらっと醸したり、公表せずオマージュに留めたりと昨今の間テキスト性は様々だが、二頁にわたり引用し参照可能にするのは面白い。歌集全体に流れる怒りにラザロがしっくりきて、聖書の一節からのオマージュなので一方通行なはずなのだが、二つのテキストに何か抒情の行き来があり交互作用があるよう読後に感じた。


  あと十円足りずに千円札を出すわづかに角の破れたるまま


 角が欠けている千円札はしばしば目にする。誰かの財布から飛び出たときに欠けてしまうのだろう。あと十円が足りなければ、普通なら小銭を引っ込めて千円札を出すが、主体はぼんやりと千円札を出してしまう。疲れきっていて、お釣りが少なくなるように端数を合わせるのもできなさそうだ。そのダルな雰囲気のなかでやけに千円札の角がズームアップしてくる。時間もゆっくり流れていて、その時間の流れのなかで、主体はもはや買い物やお釣りの計算はどうでもよくなり、この千円札は角が破れているな……と考えている。迎えて読みすぎてしまったようだ。時間の流れなどまで読まなくても、数ミリのお札の角の破れを歌にするのは歌人の視力がよい歌だなと思った。

 改めて歌集の御上梓おめでとうございます。

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