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林和清歌集『朱雀の聲』を読む

  新型コロナウィルス感染症や香港のデモなど世界規模の社会問題が反映された歌集だ。典雅な文体のなかで社会的な問題意識を自らに引き付けて詠っている。   マスク外し鴨南蛮をひきよせる“来る人は来る”のひとりとなつて   傷口に蝶の舌挿しいれられてまた東京が遠くなつたやう   毎日おなじ服着てすごすスーツでも仕事なら日日替えてゐたのに  最初の連作は新型コロナウィルス感染症の連作である。〈コロナ〉と直接詠みこんでいる歌もあるのだが、一首目のように〈“来る人は来る”〉と自らを特異で招かざる客のように表現し、いわゆる自主規制の意識から来る軽い罪悪感を詠っている。鴨南蛮というかるい語感がやわらげるが、共感値が高い歌である。二首目は東京が感染拡大している状況を反映している。上句の比喩が絶妙で自らの心の傷が生々しい。心的外傷とまではいかないが、感染症社会で鈍痛のするようなストレスを抱えるひとが多いのではないだろうか。三首目は戯画化して詠っている。ステイホームで単調な日々なのであり、仕事でさえも生活のハリであった。つぶやきのような歌だが定型と文体を与えられると歌になる。   催涙ガスは酢のにおひすることをしるワンブロック先のきれぎれの声   自らを刺した手つきをなんどでもなんどでも鵺は死をくりかへす  香港への中国の介入とデモ。〈われ〉は香港に赴いたとき衝突の断片を体感する。報道や政治状況などで片付けず感覚をもってして詠うところに作者の問題意識が現れており、他の歌で児童虐待や難民問題と多岐にわたる。次の歌は能が下敷きにあるが、武士の手によって殺された鵺がシテとしてあらわれその無惨さを訴える。この歌も能が手伝って殺されるときの苦痛や悔しさを、かえって生々しく体感的に詠われている。時代を象徴するような社会詠が多いが京都が舞台の歴史ミステリーのような面白い歌もある。   不比等《ふひと》といふ不遜な名前 彼の手には冷たくぬめる水掻きがある

カツカレーと鷗外記念館

 鷗外記念館の講演は緊急事態宣言で空振り。とはいえ、鷗外には会いたい、そんなわけで普通に観覧することにした。その前に腹ごしらえということで恒例のコーナー「洋食バンザイ」。今回は千駄木駅近くの洋食屋レストランryuを堪能。昭和54年創業とのことで、バブル景気や平成景気など元気な東京とともにあるんできたであろう洋食屋さんである。近くには日本医科大学附属病院もあり医療従事者もきっとたくさん宴会してきたはず。昭和初期創業クラスの老舗は佇まいがこってりとしている印象があるが、本店はすっきりと洗練されている。  ハンバーグが売りらしいが、洋食屋さんのカツカレーが好きなので、我が道を行くことにする。この店はチキンカツとメンチカツを選べる。カツカレーというとトンカツが多いので、チキンカツカレーは未知の領域かもしれない。  カレーには素揚げの茄子、南瓜、ブロッコリーもトッピングされている。茄子やブロッコリーがソースに絡んで食感を楽しませ、南瓜の思いがけない甘みに舌が喜ぶ。ソースは意外にもさらっとしていて、スパイスの爽やかさと玉ねぎの甘みが際立つ。チキンカツはポークカツと違いあっさりしている。どちらかというとライスに近いというべきか、カレーと一体感がある。タンドリーチキンが美味しいようにカレーとチキンは合うと決まっているのである。  筆者は迂闊なことにライスを先に食べてしまい、チキンカツを何切れか置き去りにしてしまった。何切れかのチキンをカレーに絡めて改めて食べる。美味い。失策どころか、チキンカツカレーと、洋風カリー油淋鶏を生み出してしまったようだ。  さて、鷗外記念館は団子坂の上にある。短く急な坂だが、古き良き店やアパートメントが並んでいる。東京は坂が多い、余談だが筆者の地元所沢も坂が多く、二十三区といっても過言ではない。展示品をみて、万年筆は好まないという一面や、印章の多さ、明朝体のような端正な筆蹟など鷗外らしさを堪能し、図録やブロンズの鷗外メダルを購入した。三人冗語の石を見れたのも収穫だ。  せっかくなので根津神社にも参拝する。その過程の裏道は薮下通りという。鷗外を尋ねる文士が後を絶えなかったとあり、恐れ多く歩く。文京区はどこもかしこも文豪の息遣いがあり、文京区ならぬ文豪区である。根津神社の道を挟んで日本医科大学附属病院がある。文豪気分を満喫していたのだが、数パーセント生業モード

岸本智典編著ほか『ウィリアム・ジェイムズのことば』(二〇一八・六/教育評論社)を読む

  かつてドイツで医学は発展したように心理学もヴントがライプチヒ大学で講義したのがはじめといわれている。その後世界の科学技術の趨勢と同じくしてアメリカに主導権が移動するのだが、その立役者の一人としてジェイムズがいると筆者は記憶していた。さてジェイムズは心理学の文脈以外でもプラグマティズムの文脈でも語られる。心理学に触れたことがないひとは、岩波文庫で『プラグマティズム』が出版されているので、哲学文脈で知っているひとも多いだろう。ジェイムズは心理学と哲学を越境し、構成に影響を及ぼした人物として捉えがたいが、本書はジェイムズの著作の要所要所を抜粋し解説を加えることで俯瞰して思想を追うことができるものである。   意識というものは、断片的に小間切れで現れるものではない。(中略)それを記述する最も自然な比喩は「川」や「流れ」である。(中略)思考もしくは意識の流れ、あるいは主観的生の流れと呼ぶことにしよう。  『心理学原理』からの引用である。主観的と言い直すあたりに心理学者らしさがにじみでている。ジェイムズ以前の心理学は統合よりは分析にベクトルが向いていた。しかし、ジェイムズは観念や表象の円滑なつながりに注目した。特筆すべきはジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフなどモダニズム文学の意識の流れに転用されたことである。心理学的なインパクト以上に文学的インパクトが大きいようにみえる。   われわれは泣くから悲しい、叩くから怒る、震えるから怖いのであって、悲しいから泣くのでも、怒っているから叩くのでも、怖いから震えるのでもない。  感情を身体変化に起源をもとめたジェイムズ=ランゲ説と呼ばれるものである。似たものに顔面フィードバック仮説というものがあり、近年メディアなどでみられる笑いヨガなどもその一つであろう。この説はいわゆる操作的定義にも通じるものがあり、プラグマティズムの発達とともに人文科学や社会科学が、記名・計測・統制や再現性といった科学らしさを獲得する過程のようにも読める。   「真なるもの」とは、ごく簡単に言えば、われわれの考え方における都合の良いものにすぎない。   「信念は真理であるから有用だ」とも言えるし、「信念は有用であるから真理だ」とも言える。  『プラグマティズム』内の象徴的な二つの文である。都合のいいという言葉で実用主義と名付けられたが、筆者は「有効」という

大下一真歌集『漆桶』を読む

 歌集名ともなった『漆桶』は聞きなれない言葉である。漆の桶、仏具や高価な調度品であろうか。帯を読んでみると漆を入れる桶で「まっくらでなにもわからないことや、仏法についてなにもわからない僧、または妄想、執着の譬えである」と書かれている。そして表紙に漆黒で漆桶と書かれている。一筋縄ではいかない歌集のようだ。歌集の佇まいがただならない。   「福寿草まだ出ませんね」「そうですね事情は特に聞いてませんが」   紫陽花の首をはねつつこれがかの男ならばと思うてならじ  圧倒されつつ読んでいくと、一首目のような歌は作者像と一致しており安心する。花の寺と呼ばれる瑞泉寺が浮かんでくる。檀家かもしれないし、訪れた歌人かもしれない。会ったことがある読者なら冗談めかした笑顔で答える大下の姿が浮かんでくるだろう。そして相手は気の利いた返答に、すごいお坊さんは違うな……と素朴な感想を抱くのだろう。二首目は心の声が漏れている歌だ。瑞泉寺には紫陽花が多い。様々な種類の紫陽花を挿し木で増やしているようだ。この歌も紫陽花の話などを酒の席でしているときなどに披露される小咄として読むのも面白い。   或いはもっとも苦しみ多き生物としてヒトはあり服着て靴履き   歳月はたとえばいつしか潮引きし広き渚にたたずむような  仏教や人生に裏付けられた抒情も、自然とともにゆったりと詠われている。同連作中に蕗の薹の歌があるが、ひとは他の動植物と違い服や靴で覆われている。それは社会や立場を象徴するもので、毛や爪とは違う。そうした葛藤が最も多い生物だという。また、歌集全体を流れる時間が長い。それは鎌倉という風土や仏教という宗教文化も手伝ってのことだろう。次の歌は歳月という漠然とした概念を下句で映像的に表現している。ただの渚を想起するだけではなく、たとえば流罪にあった貴人のイメージを重ねてもよさそうだ。長い時間蓄積されてきた風土や文化、そのなかでの一回性のある生を考えさせられる歌集だった。何度読んでも新たな気付きがありそうだ。最後に恒例の好きな歌で締めくくりたい。   千両も万両も実を輝かせ長者にあらぬ身は庭を掃く   客殿に「千里同風」の色紙掛け千里の風をもてなしとする