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2023年1月の日記

 2023/1/3  1/1,2はお正月休み。年末の東急ジルベスターコンサートが面白く、年始のウィーン・フィル ニューイヤーコンサートが素晴らしかったことを書き留めておこう。そして今日はニューイヤーオペラコンサート、さい先がいい。また、おそばせながら読んだ「歌壇」(二〇二三・一)の「今年、注目の歌人」に昨年発行した短歌同人誌「くくるす」のくだりで引用してくださっていた。頑張ろう。  今日は柄谷行人『憲法の無意識』を読みはじめる。タイトル通り憲法はGHQに制定されるときに検閲があり、フロイトのおそらく超自我の検閲と関係しているなどと展開が始まる。戦争は国民の欲の捌け口でもあるのは、ジョージ・オーウェル『一九八四年』でも色濃く現れている。現実のアメリカも特に仮想敵国を常に設定し選挙しているわけだから、表向き自由主義から新自由主義に移行し民主主義的だと思われているが全体主義の要素が大いにある。警察予備隊について吉田茂が「戦力ではない」と言ったが、今日の敵基地攻撃能力が明らかに戦力だな。  明日が仕事始めということもあるのか首が痛い。 2023/1/4  仕事始め。俗塵にまみれるという言葉があるが、埋まれるという言葉もつくってもいいかもしれない。柄谷行人『憲法の無意識』読了。第九条は国際社会に対する贈与、交換様式の分類など興味深く読んだ。今週は短いのでなんとか乗りきろう。 2023/1/5  いろいろ生業は落ち着かない。落ち着くことなど医療福祉業界にはないのかもしれない。その点はもう諦めというか失望しているというか。今日はネットプリントを読んだり、歌集を読むなどして多くの作品に触れる日にした。少し前にあえて上手くならないようにすると言っていた短詩型作家がいたが、それぞれでいいんだけど上手くならないなりの上手さってあるからナンセンスな主張だと今更思った。 2023/1/7  ジャック・デリダ『他の岬 ヨーロッパと民主主義』読了。文体が独特で難解に感じたが柄谷行人を先に読んでたので理解できた。ヨーロッパ的(時に保守主義的な)であるということは、国家=ネーションや、ヘゲモニーなグローバリゼーションではなくアソシエーションを実現することであるというパラドックスを述べている。柄谷はデリダの論を整理して展開したのだなと思った。「歌壇」(二〇二三・一)を改めて読む。   水呑み百姓の三男

毎日新聞学芸部編『よみがえる森鷗外』を読む

  木下杢太郎は森鷗外をテエベス百門の大都と表した。テエベスとはテーベのことで『世界宗教用語大事典』によるとエジプトの古代都市で紀元前二千年頃から首都になり、紀元前十六から十世紀頃から繁栄したとされており百門の都と称されたとされている。繁栄した期間の長さや未開拓地多き古代において想像を絶する都市だったのだろう。杢太郎は「東門を入っても西門を窮め難く、百家おのおの其一両門を視て而して他の九十八九門を遺し去るのである」(二〇一六・三/『木下杢太郎随筆集』)と述べており、鷗外の博覧強記、多才ぶりを例えるのにテエベスを持ち出すほど感嘆していた。  テエベス百門の大都のことを再び思い出させたのは『よみがえる森鷗外』(二〇二二・一二/毎日新聞学芸部編)を読んだからである。本書は四十一名が作家や研究者、ジャーナリスト、そして歌人の視点から鷗外について文章を寄せている。どの執筆人もその筋の第一人者で、面白いのは各々鷗外について思い寄せが強いことだ。  町田康は「熟々《つらつら》思うのは、自分はゴミカスだ。と云《い》うことで、なぜかというと物書きの看板を上げてもう二十年にもなるのに森鷗外にちゃんと向き合ってこなかったからである」と書き出している。読者を“つかむ”冒頭で作家ならではだなと思いつつも、作家という立場では森鷗外はやはり無視できないということだろう。森鷗外は陸軍軍医総監と重鎮作家という当時は両立するのに困難な二足のわらじで歩み、世界情勢上も自身でどうにもしがたい立場におかれていた。ゆえに社会と個人の葛藤において、自己の立場を受容する諦念(レジグナチオン)の思想がある。『かのように』はよく諦念の例に出されるが、『高瀬舟』の安楽死などもそうだろう。本書では作家であり医師である草川草介が文体に惹かれたといいつつも、安楽死、尊厳死という観点でも読んでおり『高瀬舟』は生命倫理の論点で読むのは順当かつ新鮮かもしれないと思わされた。  高橋源一郎は『あそび』という短編を紹介しており、筆者はとりわけ面白く読んだ。鷗外自身をモデルにしており役所勤めをしている作家の主人公について書かれている。役所の同僚が主人公に「こないだ太陽を見たら、君の役所での秩序的生活と芸術的生活は矛盾していて、到底調和が出来ないと云《い》ってあったっけ。あれを見たかね。」と話しかけられ、主人公は「どうも思わない。作りたい

ネットプリント「nebokemanako」を読む

   痩せ蛙 カンディンスキーの抽象画のような時間を大事にしたい   あばら骨の内側を撫でられているみたい、マッチングアプリの広告   孤独さと天文学を天秤にかけてきれいな夕立が降る  古河惺ネットプリント「nebokemanako」は一〇八首が紙面にぎっちりと収録されている。今回は乱暴にも三首抄出して鑑賞することで本紙の読みとひと方向を見出だしたい。一首目はロシアの抽象画家ワシリー・カンディンスキーが題材になっている。カンディンスキーの抽象画は複数の要素やモチーフが幾何学的に色とりどりに配置された作品が印象的で、時代の荒波に揉まれながらも多くの鑑賞者を得た。作品自体に小さな宇宙や生態系を構成するような空間性がある。ひとが過ごす猥雑な時間、さらに迎えて読みすぎかもしれないが、宇宙の時間感覚や、他の生物種の時間感覚も踏まえており、そのカオスを大事にしたいと詠っている。長い下句はカンディンスキーを援用しているが、初句で痩せ蛙を衝突させている。ミクロコスモスとマクロコスモスのように捉えればいいか、カンディンスキーの抽象画のような時間の象徴が痩せ蛙に集約されるということなのか読みきれないところはあるし、それらを痩せ蛙だけで支えられているかは難しいところだが面白い見立てだ。二首目は上句の身体性が生な感じがする。現実的にあり得ないが抒情としてわかる身体感覚は幻肢痛のようである。詩的な入りから下句のマッチングアプリという俗な展開は落差が大きいが成功している。マッチングアプリの市場主義的な恋愛、人間観にあの幻肢痛にも似た違和感を感じるというのは読者としても納得感があるので、詩的なイメージから俗なモチーフへの落差があっても安定感のある着地ができた。さて、三首目は古河の歌の志向性が表現されており、最後に抄出した。二首目にみられる内向性や孤独さは作品全体に通底している。そして天文学に象徴される言葉のセンスや詩的な志向性は一首目などにみられるものだ。孤独さと、詩的言語である天文学が絶えず天秤のうえを揺れるようにして歌を詠んでいるのだろう。では、きれいな夕立とは何だろうか。確証はないが夕立のように上から下に降る数行、数十行にもなる短歌のことなのかもしれない。

ネットプリント「夕星パフェ 第9号」一首鑑賞

 正月にゆったり家でお茶を飲みつつ、予め目をつけていたお正月番組をみる。概ねどこの家庭でも、何年も続けられてきた過ごし方だろう。筆者もそうした年末年始の在り方を愛する一人だ。時間があるせいか、ハレの気分がそうさせるのか、普段より短歌を楽しく鑑賞できるのも年末年始だと思う。普段は必要に迫られたり、疲労や睡魔と戦ったり、ストイックにやらなければやってられないことがあるからかもしれない。さて、そんな年末年始におもしろく「夕星パフェ」を読んだ。せっかくなので一首鑑賞をしてみよう。    一階に布団を敷いて寝ていたころ私は地平の先まで行けた 枇杷陶子  一階で過ごすこと、二階以上で過ごすこと、特に目がさえた夜は感覚が鋭く違いがわかる。たとえば下に人がいる感覚、風で建物が揺れる感覚、二階以上で寝ることは実は不自然なことで人間ならではという文明性を帯びている。一方で一階は地面の延長にあり、プリミティブな感覚が地平の先まで行けたという童心に繋がったのだろう。上句の字余りの〈ころ〉、結句の〈行けた〉といういい放つところで文体からも童心を感じさせる。一階と上の階層という対比だけではなく、歌意の思想性と文体や素材の素朴さという対比もみられる。   流星群の見えない夜に降る雪に混じるだらうかきみの願ひは 有村桔梗  流星群という詩的な言葉を見せ消ちにすると、読者の流星群の心的表象が宙吊りになり着地先を求めるようになる。読み進めると雪が出てくる。雪は白くひかり空から降ってくるので宙吊りになった流星群の心的表象のよい帰属先になる。ここで流星群が雪となり降ってくるという特殊効果のような変換が行われる。雪のようにうっすらと消えてしまうことも、流星群のように一瞬強い光を放ち消えるのか、何れにせよ美しくも儚いきみの願ひを考えている。   暮れ残るあおい街並みのこされたものはあまねく饒舌である 道券はな  「茶の湯展」という連作の最後の一首。のこされたものは街並みと読むのが順当だろう。茶器は長い時間を経て語らずに美を示唆するのみである。鑑賞者が展覧会に足を運んで出会うことで茶器と対話できる。街並みは喧騒とともに意味が溢れている、つまり饒舌なのだ。最初はこう読んだが、どうも落ち着かない。のこされたが、かなにひらかれているのが気になる。例えば遺されたと漢字を振ると饒舌なのは茶器のほうかもしれないからである。

2022年12月の日記

 2022/12/3  ストレートネックで寝違えためしばらく動けない。近医を受診し消炎鎮痛剤と頸椎牽引を処方してもらう。明日は接骨院に行こう。  サント・ブーヴ著、小林秀雄訳『我が毒』を読む。知らない作家ばかりだが、ヴィクトル・ユゴーとバルザックの批評は主著を読んでいたのでついていける。近代批評の父といわれるサント・ブーヴだが結構辛辣かつ執着心がある。二人とも俗物である的なことをブーヴはいっているのだが、本人も調べるとユゴーの妻と姦通している。本書ではブーヴが批評について生理学、博物学のような分類や分析することを志向していることや、他者の批評を通じて自己批評や自己崇拝している不可分性を述べているあたりはなるほどと思う。伝統的な印象批評や伝記的批評を発展させた批評家とされているが近代実証主義の先駆けなのかもしれない。それ以前はきっと言いたい放題というか統制のされていない感想めいた批評が跋扈していたのだろう。また批評を書く際も焦らずにまずはゆっくりと成り行きに任せて読むことで、次第にテキストの先にいる作者が彼ら自身の言葉で彼ら自身の姿を描き出すといっている。依頼された原稿は締め切りがあるのでそんな悠長なこともいっていられないが、批評家だけではなく歌人も何度も繰り返し一定の歌集を読むもので、そこからよい批評も生まれるだろう。文学者についての私見も面白い。文学者はもはや人間ではないという。友人や情人を亡くすなどで悲嘆にくれても、自尊心にくすぐられる場所があり、そこを軽く叩くとニッコリするのだという。歌人も身内が亡くなるとまず歌にする。 2022/12/4  宮本百合子『フロレンス・ナイチンゲールの生涯』を読む。ナイチンゲールの時代は看護師は酒気帯びは普通で堕落していたらしい。ナイチンゲールの生涯はそこから近代看護学、公衆衛生、医療安全、院内環境整備を確立した功績にある。政治をも動かしロビイスト的な仕事もしていたようだ。小林秀雄の著作集もなんとなく読んでいる。  接骨院で歪みを直してもらい、指導もしてもらう。思いの外いい。マッサージ屋さんではなく行くべきは接骨院だ。食事はフカヒレ中華蕎麦と飲茶。飲茶はもっとあってもよかった。帰りにTop'sのブラックチョコレートケーキを買う。 2022/12/7  岸田國士『従軍五十日』を読んでいる。満州事変後の中国の従軍記者としての