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川口慈子歌集『Heel』を読む

 歌集名の『Heel』は悪役プロレスラーの悪役の意味だが、悪役は悪ではなくあくまで役割であるなど考えていた。本歌集は後半の家族詠や挽歌が胸を打つのだが、Heelとは何かここでは考えたい。   友達の顔に似ている面接官これはなかなか信用出来ない  友達が分からない限り面接官がわからないが、例えば主体がHeelなら面接官は対をなす正義の味方役だろう。さて、正義の味方役ということは正義の味方ではないかもしれない。誠実そうな見た目には騙されてはならず、下句のとおりなかなか信用できない。   スマホ開くたびに私を戒める女子レスラーの背筋画像  主体にはHeelが被るマスクはない。リングでみられるような挑発も社会では許されない。味方役の顔をして社会は主体を圧倒するなかで、女子レスラーの背筋が主体を励ます。腹筋や上腕筋はあからさまで、背筋という背中や見えにくい筋肉、体幹を支える筋肉だから歌になるのだろう。   腹一杯食べて逆さに浮かんでる金魚の今日はブラックマンデー   スイカ味のビールちびちび飲むわれに麦わら帽子を被せくる友  Heelはあくまで役であり、反動はある。過食と睡眠という贅沢に浸る主体を金魚と鮮やかに喩える。太った鮒や鯉ではなく金魚というところにも自意識が出ており言葉の斡旋の妙がある。ブラックマンデーは歴史的な株価の暴落だがそれほど気分が落ち込んでいるということだろう。金魚やブラックマンデーと色彩豊かに映像的に詠う。次の歌はスイカ味のビールを飲むことで夏を満喫したつもりになろうとしているところ、友が麦わら帽子を被せさらに夏を謳歌せよと説いている場面と読んだ。先述の面接官に似ている友だろうか、主体と性格が対照的なのかもしれない。あるいは〈海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり 寺山修司『空には本』〉のオマージュもあるのだろうか。だとしたら麦藁帽のわれもスイカ味のビールを味わうといいかもしれない。   太っても着られるように友が縫いしわれのドレスはウエストがゴム  役はなくても主体は強さをもっている。川口はピアノ奏者でドレスは演奏用のものと読みたいが、しなやかなドレスにもゴムという機能的かつ素朴な仕掛けがある。見栄を張るのではなく、ウエストがゴムと体言止めで言ってのけるところに飾らぬ強さがある。   全休符よりも仮死

永田紅歌集『いま二センチ』を読む

職業生活、私生活、現代社会に生きる多くの人にとっては交互に訪れる時間である。それらを両立、補完しながら日々は過ぎていく。本歌集はどちらも生き生きと描かれており、永田にとってどちらも価値があるということがわかる。   水道を流しっぱなしの音ひびく研究室《ラボ》の夜更けは海につながる  実験の関係で水道を流しっぱなしにしている夜更けの研究室の少し気怠く時間が延びていく雰囲気が出ている。そんなときだからこそ水の循環等に思いが及び、遠く離れた海を思い浮かべるのだろう。   申請書書けば繋がる何年かアケボノスギの透き通りたり  申請書は科研費等の申請書だろう。今日の研究職の在り方という感じがする。この歌は現状に対して批判ではなく嘆息にとどまり、むしろ人間よりも長い時間を過ごすアケボノスギに転じている。批判ではなく時間や樹木という自然に目を向けるところが歌である。   スリッパを履き替えドアを三つ開けまるく眠れるネズミ選びぬ  本歌集は猫やネズミなど動物が頻繁に登場する。ネズミは実験用のマウスだが、〈まるく眠れる〉や、マウスとではなくネズミと詠うところに動物の愛らしさを見出している。過度に実験に使われるのはかわいそうなど感情移入しないところに研究者としてのわれが立っている。   母の歌の前庭にわれら日を浴びてまだ本当のさびしさを知らず   私の監修のもと父の初ビーフシチューは出来上がりたり  父母が歌人ということを踏まえて読むと一層面白く読める歌がある。一首目は河野裕子の家族詠を読んで、まだ母の死に立ち会う前の場面だと思う歌。思い出の鮮やかさが前庭に表れており、現在と過去が交錯している。三首目は監修というところが面白い。この歌も作者やその家族の背景を踏まえて読むと面白い。   実験を止《と》めて破棄する細胞はヒト胎児腎臓由来なれども   安静の合間にプレゼンいくつかをこなして次のポストを得たり  歌集名からもわかるとおり、妊娠の歌、子の歌が本歌集の主題である。直接的に身体的な感覚を詠うのではなく、普段以上にヒト胎児腎臓由来の細胞を破棄することに感情を呼び起こされたり、産前の休暇で仕事の席を空けるときに、自分のポストを確保するために在宅で仕事をしたりと、社会性を帯びている部分を冷静に詠っている。あえて冷静でいよう、ありたいとするがゆ