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9月, 2019の投稿を表示しています

SF天狗 海野十三著『くろがね天狗』(一九三六・十/逓信協会雑誌)を読む

 海野十三の『くろがね天狗』(一九三六・十/逓信協会雑誌)に登場する天狗はまさに十三流といったところである。舞台は江戸時代で、天狗と囁かれている辻斬りが町を混乱に陥れている。室生犀星の『天狗』も謎めいた剣客が次第に天狗と呼ばれるようになるので共通項がある。天狗は人の形をしており、超人的な力を持っているので、どうやら町中で暗躍する怪人に対して天狗と人は呼ぶのかもしれない。怪人というと仮面ライダーを彷彿とさせるが、仮面ライダーも元々は改造人間で怪人になるはずだったわけで、仮面ライダーも天狗なのかもしれないなどと思うのであった。  くろがね天狗は名の通り鋼鉄の体をしており、それに十三が書いた作品というと、ロボットだなと読者はわかってくる。脳波で天狗を操ったり、江戸時代なのに人の5倍のスピードで動く性能を持ち、取り合わせがなかなか面白い。また、開発者は恋の敗者で、ルサンチマンによりオーバーテクノロジーなロボットを製作するわけだが、最後は因縁深く深い傷をおって、世間から消えていく。普段はくろがね天狗は洞にしまってあって、男が狂気に染まると動くのである。暴走が前提にあるシステムは、製作者の意図的するところだ。たとえば鬼は情念が根底にあるが、天狗はそのあたりはもう少しドライで、元々人間であるが、幾分か人間性を捨てているように思える。そのため、天狗は無邪気に人に対しても悪戯をし、くろがね天狗はロボットなのである。本作では製作者が手負いになることで人間に戻る。また、天狗は隠遁性と、「天狗になる」というように高慢な態度があるように思われるが、鋼鉄の体をもったくろがね天狗もご多分に漏れずその性質を兼ね備えているところをみると、本作は荒唐無稽なSFではなく、ちゃんとした天狗の小説である。

古い木にまつわる都市伝説 室生犀星著『天狗』(一九二二・一二/現代)を読む

 本書は背の低くみすぼらしい剣客赤星重右が、天狗のように生活をして死ぬまでを描いた作品だ。『天狗』という題名だが、はじめから天狗は出てこない。赤星が不機嫌そうに歩いていると鎌鼬が起こるので怪しいという噂話がある。あくまで噂で展開される様は当時の都市伝説のように展開されていく。犀星の時代に天狗が都市伝説の中心になることはなさそうだが、説話調に犀星は前の時代の都市伝説を再生するのである。ここまで読むと『天狗』ではなくて、『鎌鼬』を読んでいるのかもしれないと不安になってくる。  処遇に困った城内役人はある土地を与えるという建前で赤星を封じ込めることにして、町から離れたところに住まわせる。そのうちほとぼりが冷めて、ときたま地震は彼が木を揺すったとか、奇怪な言動がみられるという報告または都市伝説が囁かれるが、赤星は天狗伝説のある黒壁権現堂のなかで蟄居するのである。病や憑き物に効力があると黒壁権現は参拝客が絶えず、神の使いといわれる白鼠も無数に堂内におり、超自然的な景がみられる。赤星はというと供物を食べて悠々自適に生活している。そのうち彼自身も天狗のようだといわれながら、相変わらずに蟄居しているのである。ここで赤星は鎌鼬を引き起こす怪しい剣客から、天狗に昇格するのである。これも人々の噂がそうさせたもので、都市伝説の内容が更新されたのである。  ここで時代は犀星と同時代くらいに戻り、赤星は天狗ではなく、狂犬病で奇妙な振る舞いをしているのではないかという推測がでてくる。この話だけではなく憑き物の話は概ね狂犬病によるものだという。江戸時代から、合理主義が流れ込んできた近代へ一気に時代が飛ぶ。いわゆる脱魔術化の過程がある。そこで〈私〉は客に「いや、ただそういう古い樹には古いと云う事丈《だけ》が人間に何かしら陰気な考えを持たせる丈なんだ。その外には何んでもない。」といって考えが郷里の闇の中に飛んでいき物語は終わる。赤星や天狗から離れて古い木について言及されているが、これは物語から少し外れた記述であり、物語が古い木を語るための出だしの役割をしているのかもしれない。では古い木とはなんだろう。もしかすると権威化してしまった犀星自身のことかもしれない。そこに犀星自身も都市伝説にならないようにという自戒があったのか。

餃子を囲んで 江國梓歌集『桜の庭に猫をあつめて』を読む

 歌集が編年体だと歌集の中で〈われ〉の時間が経過していき、時間的な膨らみがでる。歌の中でのイベントなどから時間の経過をみることもできるが、短歌は抒情詩なので〈われ〉や周囲の人の心境の変化から時間の経過が読みとれるということが、文学的な時間の経過といえる。   ひとり居に沁みこむ雨の木戸あけてあなたの見せた蒼い朝顔   これがニンフあれがワーカーと白蟻を指さすきみと暮れてゆく部屋   婚六年夫から青虫の贈りもの紋白蝶にもう驚かず  編年順に三首引用した。江國の夫は生物学の研究者で、意識的にか無意識的にか時間とともに生物に対する認識が、内面化していく。〈ひとり居〉とありまだ結婚前の回想の歌だろう、あなたも朝顔も木戸の外にまだいる。雨の降り、木戸は象徴としても捉えられ、雨のなかで朝顔をみせたあなたの頼もしさが読みとれる。次の歌は引き出しのなかの壜で白蟻を飼っているという背景がある。白蟻は一般的には害虫のイメージだが、それは人間からのレッテルであり、つまるところ昆虫である。白蟻の役割を教えてもらう情景で、歌のように様々な部分で生物学の知識を夫から聞いており、肯定的にそして柔軟に吸収している。結婚六年を経て、紋白蝶の幼虫をプレゼントされても驚かないという慣れがみられ生物の存在が内面化されている。生物へのスタンスの変化が歌を通じて読めるのは物語的な面白さがある。   行者にんにく入れてむすめと包む餃子ひだの数など微妙に違へど   日本語を話すとき英語を話すとき微妙に変はる娘のせいかく  娘の歌は夫ほど多くはないが、娘と自分の違いを詠んだ歌も面白い。餃子はたくさん作るので内田クレペリン検査的な要素があり性格が出そうだ。ひだの数が微妙に違うとあり、微妙な性格の違いが顕在化しているのである。二人で餃子を作っているということは、一家全員で餃子を囲む情景を想像させるが、和やかな家族団らん像のなかに潜む小さな違和感を詠んだという細かな視点の効いた歌だ。次に日本語と英語で話者の性格が異なるいうのは時折耳にする。サピア=ウォーフの仮設的な話だが、実生活のなか言語によって、言葉のニュアンスが変わり、感情の表出が微妙に変わることはありそうだ。しかし、言語だけではなく娘として話す日本語と、海外生活者の妻としての英語という立場の違いも歌に読み込まれているのだろう。ここでも微妙に違うという

サバンナと東京の距離 日置俊次歌集『ラヴェンダーの翳り』を読む

 二〇一八年に前歌集『地獄谷』を日置は上梓しており、その一年後に本歌集『ラヴェンダーの翳り』が上梓された。『地獄谷』は台湾での歌がメインだが、本歌集は帰国後の歌が中心に収められている。   しまうまの耳のごとくに蠟の火のゆらぐたまゆら母が顕《た》つなり   朝東風《あさごち》に髪のたうちて人ごみをうつむき歩むメドゥーサわれは   嘆くべきことなりやたうたう日は暮れて戦闘機たちがトンボにもどる  『地獄谷』では連作の歌の並びで、〈われ〉の驚きを読者も追体験できる手法があることを本ブログ(龍になる 日置俊次歌集『地獄谷』を読む・http://fuyuubutu.blogspot.com/2018/09/blog-post_18.html?m=1・浮遊物/最終閲覧日ニ〇一九年九月四日) で述べたが、本歌集でも連作の構成でさらなる手法がみられる。一首目は巻頭歌だが、蠟の火がしまうまの耳であるという比喩が独特だ。仏壇の蠟燭と、サバンナのしまうまとは距離感がある。連作全体でしまうまのモチーフが読み込まれて、徐々にその世界に引き込まれ、蠟の火としまうまの耳が馴染んでくる。〈とほいとほい草原にわれは斑馬《しまうま》となりて探しぬ亡き母の風〉まで読み進めたときには、サバンナの草原を背景に母を偲ぶ〈われ〉が立ち上がってくるので、小説のような引き込まれ方をする連作といってもいいだろう。これは迎えて読みすぎているかもしれないが、しまうまを縞馬ではなく斑馬と表記したところに、日置の飼っているダルメシアンのルメを潜ませているような、隠れたこだわりを垣間見た。しまうまの連作は挽歌だが、次のメドゥーサの歌にも同じような連作の意図があるように思える。東京の中心部とギリシア神話という組み合わせだが、この歌はさらに〈朝東風〉をいう雅語が和歌らしさを醸し出している。うちに秘める怪物性をギリシア神話を借りながら全面に押し出しつつ、都会らしさや和歌らしさという古典から現代短歌をミクスチャーさせた連作だ。また、社会詠(時代詠?)にも以上のような手法はつかわれて、戦闘機がトンボにもどるという飛躍が無理なく行われている。なお、夕暮れの情景やトンボというモチーフは近代文学らしいと感じた。戦闘機が飛んでいる時代にモチーフを寄せて選んでいるのかもしれない。   腕時計机の上におくべきか手に巻くべきか質問のあり

聖地巡礼 方代忌2019.9.7のメモ

 第三十三回方代忌で基調講演のあとに会場からのコメントで十分ほどお時間をただくことになった。方代忌というと歌人以外にも方代を愛する人々があつまり、生で接したエピソードを多く聞くため、実際に会ったことのない筆者が何を話せばいいか恐縮しつつ考えていた。ひとまず自身の方代観について話して、方代を知らない世代の者がどのように作品を読むのかのケーススタディにしてもらうのがいいのではないかと考えついて、方代と聖地巡礼について話すことにした。  歌集を読んだり、方代が詠まれた歌を読んだり、毎年瑞泉寺でひらかれる方代忌に参加するときに筆者の心持ちを考えたときに聖地巡礼に近い感覚がある。聖地巡礼というとキリスト教の巡礼をイメージする人も多いかもしれないが、サブカルチャーでは異なる使われ方をしている。デジタル大辞林では「俗に、熱心なファンが、アニメ・漫画の舞台となった土地や建物などを聖地と称して訪れること。」と説明されている。なお、歌人ならば歌枕を巡るということかと思うかもしれないが、古典の素養に乏しい筆者は歌枕というより聖地巡礼のほうがしっくりくる。なぜ方代短歌は聖地巡礼の要素をひめているのか、作品を読みながら考えていきたい。   手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲りて帰る 『右左口』   瑞泉寺の和尚がくれし小遣いをたしかめおれば雪が降りくる   首のない男が山をくだる時すでにみぞれは雪にかわれり  一首目は瑞泉寺の歌碑にもなっている。ニ、三首目と同じ連作にあるため、〈いつもの角〉が瑞泉寺の参道ではないとわかっていながらも、バス停から瑞泉寺までの坂道を想起して読んでしまう。手のひらに豆腐を乗せるさまは涼しげで夏の場面のように読んだが、雪の歌もあり冬だとまた〈いそいそ〉といいつつ寒さで少し緊張した場面が喚起される。方代の写真集を見ているような連作だ。   あきらめは天辺の禿《はげ》のみならず屋台の隅で飲んでいる 『右左口』   よるべなき拳のごとき生涯を唐木先生拍手送れり  方代は飲み屋によくいるイメージを評伝やこうした歌からもつ。が、実際はそこまで飲み屋に行かなかったという話も聞く。唐木先生は唐木順三のことで、「無用者の系譜」の論考が有名だ。無用者、文人気質について永井荷風や与謝蕪村などについて触れて書かれているもので、方代もその系譜に共感したのだろう。

ふたりの博士 坂井修一とファウスト

 第一歌集の『ラビュリントスの日々』から順に坂井修一の歌集を読んでいくと、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの戯曲『ファウスト』を題材にした歌が散在していることに気づく。その主人公のファウストは哲学、法学、医学、神学まで底の底まで研究したという、あらゆる学問に精通した博士である。坂井も情報工学の教授で歌人である。本稿では坂井の作品と『ファウスト』を比較しながら、ふたつの文学世界を探究していきたい。   月沈む研究室の格子窓めざむれば独房のごときよ 『ラビュリントスの日々』   愛しつつ断念したるドイツ語でグレートヒェンがわれを呼ぶ声  第一歌集『ラビュリントスの日々』には『ファウスト』の第一部「グレートヒェン悲劇」を題材にした歌がみられる。一首目は研究室で夜を徹したときの歌だが、『ファウスト』の冒頭部分でファウストが「ああ。に照っている、満ちた月。この机の傍で、己が眠らずに真夜中を過したのは幾度だろう。(中略)ああ、せつない。己はまだこの牢屋に蟄《ちっ》しているのか。ここは詛《のろ》われた、鬱陶しい石壁の穴だ。」と嘆く場面に自らを重ねたものだろう。独逸文学者の柴田翔は『ゲーテ「ファウスト」を読む』(一九八五・四/岩波書店)で、学者悲劇について解説しており、要約すると、世界の全てを知りたいと思っても、人間である以上、知り尽くすことはできず、たとえすべてを知り得たとしても、自分の人生にとっていったい何の意味があるのだろうかという疑問が生じる悲劇であると述べている。学者悲劇に苛まれるのは戯曲上のファウストだけではなく、坂井も同じなのである。  二首目は地下牢の場面が題材である。グレートヒェンは、悪魔であるメフィストフェレス(以降メフィスト)に惑わされ、ファウストとの間の嬰児を殺して投獄されてしまう。罪の意識と処刑の恐怖に苛まれるなか、ファウストが救出にくるが、メフィストの影を察して、救出を拒絶する。ファウストが牢を去るとき、彼の内にグレートヒェンがファウストの名を呼ぶ声が響くのみである。歌に戻ろう、愛しつつ断念したというドイツ語に焦点を当てたい。角川「短歌」(一九八七・三)の『ラビュリントスの日々』の書評で栗木京子は〈雪でみがく窓 その部屋のみどりからイエスはりニーチェは離る〉を宗教や文学のような豊かな世界に感性をあそばせてすごした、十代のみどりいろに薫ってい